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いけにえにもいろいろあるけれど。。。

年齢がいっているクリスチャンだと、暗誦している聖書の言葉がすらすら文語訳で出て来たりする。

自分の場合、口語訳に慣れ親しんでた時期が長かったので、いろんな用語はやっぱり口語訳で出てくることが多い。

特に「いけにえ」の種類なんかそう。過越祭、燔祭、罪祭、愆祭、素祭、揺祭、酬恩祭、贖罪の日。いかにも漢訳聖書の影響を感じるけど、頭にインプットするには、これがコンパクトで便利なんだよねー。

意味はこんな感じ。

過越祭(すぎこしさい)出エジプトの出来事を記念するために家族があつまり、苦菜、小羊のロースト、イースト菌を入れない非発酵のパン、水に浸してふやかした乾しブドウをすりつぶしたジュース、などで会食する。

燔祭(はんさい)祭壇の上で犠牲の動物をすべて焼き尽くし、あとに何も残さないいけにえ。

罪祭(ざいさい)神に対して犯してしまった罪を贖う(あがなう)ためのいけにえ。

愆祭(けんさい)人に対して犯してしまった罪を償う(つぐなう)ためのいけにえ。これに付随して損害を与えた相手に賠償金を支払う義務がある。

素祭(そさい)砕いた小麦を、イースト菌を加えずに、油、塩、乳香と共に祭壇の上で燃やして、神によろこばれる、こうばしい香りとする。

揺祭(ようさい)いけにえの動物の一部を神の前で揺らす、という、いけにえのささげ方のこと。

酬恩祭(しゅうおんさい)慶事のときに家族があつまり、神に感謝のいけにえをささげ、その肉を家族で一緒に会食する。BBQ(バーベキュー)の元祖というか源流みたい。

贖罪の日(しょくざいのひ)イスラエルの民が一年に犯したすべての罪を、いけにえの上に置いて、贖いと償いをする重要な祭日。この祭りでささげる「アザゼルのための山羊」はスケープゴートという言葉の語源になった。

こんなにいろんな種類の「いけにえ」があるんだ。

今日の聖書の言葉。

わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。
ホセア書 6:6 新共同訳

でも、これらの「いけにえ」をただ形式的にささげていても、もしハートが伴っていなければ、そして、ハートが他者への愛というかたちで実行されていなければ、ナンセンスだよ、と、今日の聖書の言葉は指摘している。

言い換えれば、もし、神を愛し、隣人を愛する、ということが真実に行われているのであれば、儀式としての「いけにえ」は不要だ、ということになる。

この理論を究極のかたちで実行したのが、イエスの十字架と復活だ。

全人類の罪を、すべて贖い、すべて償うために、神はイエスの十字架を必要とした。逆に、全人類は、すべての罪をゆるされ、すべての罪から解放されるために、イエスの十字架を必要とした。

神の求めと人の求めに応えるため、イエスは自らの意志で十字架にかかり、犠牲の死を遂げた。究極の「いけにえ」となることで、神への愛と、隣人への愛(そこには敵に対する愛も含まれている)を、イエスは実行したんだ。

そして、イエスの復活は、そういうイエスの犠牲が、一回限りの最終的かつ完全な「いけにえ」として神に受け入れられ、神の心が満足されたことの、目に見える証しだとも言える。

イエスの復活後の世界においては、クリスチャンは、過越祭、燔祭、罪祭、愆祭、素祭、揺祭、酬恩祭、贖罪の日といった「いけにえ」を、儀式としては行わない。むしろそれらの中にイエス・キリストを見いだそうとするんだ。霊的な意味を見いだす、と言ったらいいだろうか。

たとえば、素祭(砕いた小麦を、イースト菌を加えずに、油、塩、乳香と共に祭壇の上で燃やして、神によろこばれる、こうばしい香りとする)だったら、こんな感じで霊的な意味を見いだそうとする。

● 素祭の小麦粉は、完全に砕かれてなめらかな粉になっている。そのように、イエスの心は完全にくだかれている。
● 素祭の小麦粉は、油を混ぜられている。そのように、イエスの心は聖霊によって満たされている。
● 素祭の小麦粉は、塩を添えられている。そのように、イエスの心はまったくきよめられている。
● 素祭の小麦粉は、イースト菌を加えない。そのように、イエスの心は高慢でふくれることがない。
● 素祭の小麦粉は、乳香と共に燃やされ、神によろこばれる、こうばしい香りとなる。そのように、イエスの心は、父なる神をよろこばせ、イエスの祈りは、父なる神に完全に受け入れられる。

わたしたちは、素祭であるイエスを毎日、父なる神にささげることができるんだ。そして同時に、自分の心も、素祭=イエスの心、のように変えられて行ったらいいなあ、と思う。

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