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ペンテコステ考。それにしたって、祝い足りないよ、こりゃ。

今日はペンテコステの日曜日だ。キリスト教のカレンダーでは聖霊降臨日とも言われる。すごい字面だよね、聖霊降臨日って。パワーワード感満載だ。

ペンテコステの祝日に何を祝うかと言うと、イエスを通して人類に聖霊が注がれたことを記念して祝うんだ。

なので、この日の礼拝では聖霊をテーマに説教が語られることが多い。

ペンテコステとは字義通りには、五旬節、つまり、50日目のお祭り、という意味。ユダヤ教の過越祭から50日目にあたるお祭りを指している。

さらに、イエスが十字架にかかり復活したのがちょうど過越祭の時だったことから、イエスが復活して50日という意味にもなる。

十字架にかかることによって人類の罪をあがない・つぐない終えたイエスは、死者のなかから復活し、40日間にわたって弟子たちに姿を現した。

そのイエスは弟子たちに「聖霊を受けるまで祈り続けて待ちなさい」と命じたんだ。

弟子たちはイエスの言葉に従って、エルサレムの二階座敷の家に集まり、10日間にわたって祈り、聖霊が降るのを待ち続けた。

そして10日後、あるいは、イエスの復活から50日後のペンテコステの日、ついに聖霊が弟子たちに降った。その様子が新約聖書の使徒言行録2章に詳しく記されている。

聖霊は不思議な炎の舌のかたちをして現われ、弟子たちひとりひとりに臨んだ。すると、弟子たちは自分の知らない異国の言葉で福音を語り出して、人々を驚かせた。

聖霊に触れられて突然外国語を喋り出す現象を「異言」(いげん)と言うんだけど、これは、イエスによる救いがイスラエル・ユダヤ人だけでなく世界のあらゆる国民・民族・言語の人々に宣べ伝えられるという、新しい時代の到来を告げている。

ところで、弟子たちに臨んだ聖霊って、いったい、どんなものなんだろう?

聖霊とは、世界を創造した「神の霊」のことだ。

旧約聖書の創世記の冒頭を見ると、天地創造に際して、神の霊が原初的な混沌の表面をホバリングしていた、と描写されている。

聖霊は、神が無から有を呼び出して宇宙を創造した時に働いていた根源的な力なんだ。

しかし、天地創造の主役は聖霊だけではない。神は「神の言葉」を発することによって宇宙を創造した、とも創世記には記されている。

つまり、天地創造においては「神」「神の霊」「神の言葉」という三つのエンティティーが協力して働いていたことになるんだ。

で、その線に沿うようして、後期ユダヤ教、あるいは、第二神殿時代のユダヤ教のラビたちの間では、「神」は神、神から出た「神の霊」は神、神から出た「神の言葉」も神、と考えられていた。

しかも「神」「神の霊」「神の言葉」という三種類の神がいるのではなくって、唯一の神がいる、と考えられていたんだ。

唯一の神の三つの現われとしての「神」「神の霊」「神の言葉」という後期ユダヤ教の考え方のなかに、すでにキリスト教の三位一体の萌芽があるんじゃないかなー、と感じる。

今日の聖書の言葉

すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
使徒言行録 2:38 新共同訳

聖霊が人間に降ることによって、天地を創造した根源的な存在が人間のうちに横溢し、神人合一が実現することになる。

キリスト教における神人合一とは、人間とイエスとの神秘的合一(ウニオ・ミスティカ)にほかならない。

もちろん、人間と根源者がそう簡単に合一できるものではない。

なぜなら、人間が人間であるゆえんは、人間が自己を根源者から切り離すことによって自己を生成していることによるからなんだ。

根源者から切り離されることで生成している自己を「自我」と言うよね。

自己がそういう在り方を転換しない限り、つまり、自我を手放して神にゆだねることをしない限り、根源者と一体になることは、なかなか難しい。

それはちょうど、プールサイドから水のなかに飛び込まない限り、泳ぐのは難しいのと似ている。

この「自己の転換」を新約聖書のギリシャ語ではメタノイアと言い、直訳すれば方向転換と言う意味になる。

この方向転換=メタノイアを可能にするために、神の言葉であるイエスは十字架にかかり、復活してくれたんだ!

そのスピリチュアルな構造は、こうだ。

① 神の言葉であるイエスは、全人類をイエスのうちに包摂した。
② その上で、イエスは十字架にかかり、死んだ。
③ すると、イエスのうちに包摂された全人類が死んだものとカウントされる。
④ その上で、イエスは死者のなかから復活する。
⑤ すると、イエスのうちに包摂された全人類が復活したものとカウントされる。

このような①~⑤のスピリチュアルな構造に支えられることによって、方向転換が可能になるんだ。

ペンテコステの日にペトロが説教した内容にあてはめるなら。。。

【悔い改めなさい】 自己が根源者から離れ、根源者に背を向けて生きて来たことを、後悔し、深く悲しんだ上で、そのような自己の在り方をやめて、自分自身のすべてを神にゆだねなさい。
→ はい、ゆだねます。

【洗礼を受けなさい】 根源者から離れていた「古い自己」が、イエスと共に十字架につけられて、すでに死んでしまったと認め、その上で、イエスの復活と共に「新しい自己」が、すでに生きていることを認めなさい。
→ はい、認めます。

【罪を赦していただきなさい】 「古い自己」のすべての言葉とふるまいが赦され、残らず帳消しにされたことを認め、その上で、「新しい自己」が根源者との合一のうちに生きていることを認めなさい。
→ はい、認めます。

【賜物として聖霊を受ける】 以上の結果として、自分は根源者であるイエスと合一し、聖霊が自分のうちに宿り、神とのまじわりのうちに新しい人生を歩み始めていることを認めなさい。
→ はい、認めます。

このペトロのよびかけに対して「はい」と応答する4つのモメンタムがあったわけなんだけど。。。

みなさま、4つのうちいくつ「はい」と応答しますか?

4つのうち4つとも「はい」と言うなら、あなたは聖霊による洗礼を受けたクリスチャンということになり、根源者である神と合一して、新しい次元の人生を、もう・いま・ここで・すでに、生き始めていることになる。

ほんと、ね、もう、まぢかよ、って感じ。こうやって自分で書いてても、信じられない気がする。。。いや、信じているけど。。。

だからこそ、ペンテコステの祝日は、正月と盆とクリスマスを足して100倍したぐらい力を入れて、全力でお祝いしなきゃいけないはずなんだ。

まだまだ祝い足りないよー!

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