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二重の防壁のかまえの中で、生きる。

今日も心穏やかに生きられますように!

。。。と祈る。

でも、受け身で待ってても、穏やかにはなれないんだよね。。。

だって、心をざわつかせることが、次々、起こって来るわけだから。

今日の聖書の言葉。

すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
ヘブライ人への手紙 12:14 新共同訳

「追い求めなさい!」と、今日の聖書の言葉は、強めの能動的な姿勢を取るよう、わたしたちに求めている。

その追求は、二重のかまえ、になってる。

「平和」を追い求め、かつ、「聖なる生活」を追い求める、という二重のかまえだ。

第一のかまえ。「平和」を追い求めること。

周囲と「平和」に過ごすには、自分のこだわりや愛着を手放して、できるかぎり相手に合わせる必要があるよね。

すっごい愛着があるモノやコトを手放す決断は、ほんと切ない。それこそ、自分を十字架につける、ぐらいの気持ちになる。

それでも、平和のために手放す決意をする。泣。。。

だけど、じゃあ、なんでもかんでも妥協して、すべて相手の要求に合わせてたら、それでいいのか?

相手が善意のひとなら、いいかもしれないけど、悪意がある場合、いや、悪意どころか、邪悪であった場合には、合わせたらトンデモナイ結果になってしまうよね。

絶対に譲ってはいけないポイントというのが、ある。

その譲れないポイントを命をかけて守る姿勢が、「聖なる生活」の追求という、第二のかまえ、なんじゃないかな、と思う。

第二のかまえ。「聖なる生活」を追い求めること。

相手から、悪に加担するよう誘われたら、良心に従ってきっぱり断る姿勢。

そういうふうに断ろうとするにあたって、心配なのは。。。

断った結果、相手が激怒して、もし自分が脅威にさらされたり、命を奪われたりしたら、どうしよう? という思いになることがある。

その時は、まあ、極論すると、死ぬ覚悟が要るわけだけど。。。

そこはやっぱり「自分の十字架」として受け止めるしかないよね。

それがまっとうな十字架であるなら、その十字架の先には、必ず復活が待っているわけだから。

主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。
コリントの信徒への手紙二 4:14 新共同訳

イエス・キリストの復活を確信している
   ⇓
キリストに結ばれた自分の復活を確信している
   ⇓
死ぬ覚悟ができている
   ⇓
悪の誘いを断る準備ができている


。。。というスムースな流れになるよね。

まあ、でも、この二重のかまえの「順序」が、けっこう大事なんじゃないかと思う。

「平和」を追求してからの「聖なる生活」の追求という順序だからね。

この順序が逆になっちゃうと、周囲との関りに関して、いきなり前面かつ全面に「死のー!」「死ぬぞー!」「突撃ー!」が来ちゃって、戦闘後にもし双方が生き残っていれば「平和」を考慮する、ということになりかねない。

なので、まず「平和」の追求。それで何事もなければ、すべてが平和。でも、そのなかで、もし十字架案件が発生したならば、そのときは、死ぬ覚悟、という対応になるんじゃないかと思う。

うむぅ。。。「今日も心穏やかに生きられますように!」のために、そこまで覚悟が要るというのも、重すぎる気がするけど。。。

とりあえず、「平和」に行きましょう。

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