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宇宙ヤバイ!量子論ヤバイ!世界ヤバイ!

むかし渋谷駅前にあった五島プラネタリウム。ドームに映し出された満天の星を見て、子ども心に「宇宙ヤバイ!」と感じた。ヤバイなんて口語は当時なかったけど。あの頃、連日のように光化学スモッグ警報が出て、通学路の薬局の店先には、スモッグで目が痛い子が飛び込んで目を洗えるよう、ホウ酸水の洗面器が常備されてた。そんな具合だから、夜の東京の空を眺めても、たいして星なんか見えやしない。だからプラネタリウムに感動した。

算数が得意な子なら、そこから好奇心にみちびかれて宇宙の科学的探求へと進んだんだろうけど、自分はひとケタの足し算も指折り数えないと出来ない劣等生だったから、計算による探求ではなく、SFによる探求をするしかなかった。バローズの火星シリーズと金星シリーズとか、ハミルトンのキャプテン・フューチャーとか、スミスのレンズマンとか。。。

そこから宇宙英雄ペリー・ローダンへ進めばよかったのに、どういうわけか光瀬龍にルートが分岐し『百億の昼と千億の夜』から大乗仏教を経由してニューエイジに進んでしまった。「須弥山世界上方の兜率天に展開される早期警戒システム」とか「帝釈天と阿修羅王の軍勢が対峙する戦線で飛び交うハンドミサイル」とか光瀬独特のSF的仏教解釈にシビレた小学生というのが理由。。。

その流れでヴォリロンの『聖書と宇宙人』(1980) の情報とか入って来たものだから、自分が1980年にイエス・キリストを信じてクリスチャンになったとき、このニューエイジ的思考パターンから離脱するために非常に意識を払って努力しなければならなかった。苦心したのは、創世記に登場するヤハウェとエロヒムのふたつの名前は、対立抗争する2種類の宇宙人の陣営を指すのではなくって、唯一の神のふたつの名称に過ぎない、と常に自分に言い聞かせ続けなければならなかったこと。このマインドから離脱して、「聖書は誤りのない神の言葉」と信じる福音派のクリスチャンに脱皮できたのは、大学も2年になってのことだ。

今日の聖書の言葉。

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。
詩編 19:2-5 新共同訳

量子論について書かれたウェブサイトをたまーに見てみたりする。でも、量子論って高度な数学で成り立ってるから、自分には取り付く島がない。にしても、量子論周りってほんと、SFごころを刺激する不思議な説ばかりだ。

特に、量子は情報そのもので、情報が響き合って宇宙が出現している、なんて考え方は、今日の聖書の言葉にぴったりくるなー、と思う。

昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう

光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』流に言えば、永遠に寄せては返す波のような宇宙、ということになるんだろうけど、事態はもっと複雑だ。と言うのも、量子は波動でありながら同時に粒子でもあるという、重ね合わされた状態になっていて、それがある瞬間「波動関数の収縮」が起こると、波動か粒子か、どちらかに決まるという。こうして宇宙が出来(しゅったい)するのだ。

じゃあ、重ね合わされた状態の量子が波動か粒子かどちらかに決まる瞬間は、何によって引き起こされるかというと、どうもよくわかっていないみたい。いくつか説があって、① 観測者である人間が見た瞬間「決まる」という説。② 量子みずからそれを決めた瞬間「決まる」という説。③ 未知である第三の観測者(神?)が見た瞬間「決まる」という説。④「決まる」わけではなく、波動となった世界と、粒子になった世界と、ふたつの世界に分岐するという多世界解釈の説がある。

自分はSFを愛しながら大乗仏教を経てクリスチャンになった遍歴から、上記のどの説も大好きだ。

観測者である人間が見た瞬間「決まる」という説を選ぶとしたら、自分が目を閉じているあいだは、世界も宇宙も決定されていない曖昧模糊とした状態だけれど、自分が世界に飛び出し、目を開いた瞬間に、世界も宇宙も現実として立ち現れる、と言うんだから、よしっ、外に出なきゃ、目を見開かなきゃ、という気分になるよね。

量子みずからそれを決めた瞬間「決まる」という説を選ぶとしたら、新約聖書が言うストイケイア(諸元素の霊、あるいは、宇宙の構成に関わる無数の理性的存在)が、それぞれの意志で決断した結果、このように世界も宇宙も動いている、ということになる。そして、なんと新約聖書は、それらストイケイアを創造し・保持し・統治しているのはイエス・キリストだ、と宣言しているんだ *¹。

未知である第三の観測者(神?)が見た瞬間「決まる」という説を選ぶとしたら、これは、クリスチャンとしてはいちばん安心できる説明になるのかも。神が宇宙を見た瞬間、宇宙はこのような宇宙になる、ということ。だから、宇宙は神の意志を反映している、と言うことも出来るんじゃないだろうか *²。

「決まる」わけではなく、波動となった世界と、粒子になった世界と、ふたつの世界に分岐するという多世界解釈の説を選ぶとしたら、世界は多数に分岐し続けている、ということになる。異世界もののストーリーとか、大乗仏教の三千大千世界とかに親和性があるけど、じゃあ、聖書にその可能性が示唆されていないかと言うと、そんなこともないんだ。なぜならイエスはこう言ってるから *³。

わたしには
この囲いに入っていないほかの羊もいる
その羊をも導かなければならない

あるいは ①~④ のぜーんぶ正しいということも、あり得るかも。この曖昧模糊とした世界は、ああなった可能性もあるし、こうなった可能性もあるけれど、神が見て、無数の理性的存在が見て、この自分が見て、三者が一致した結果、いまこの宇宙が眼前に出現していて、しかも、こうはならなかった世界も、自分の知らないどこかに隠れて保管されてる、みたいな。で、いつか、なにかの拍子に隠れて保管されてるほかの世界を目にする機会があったとしても、うーん、よくよく考えて、やっぱり、いまのこの世界のほうが良いや!と思えるような。。。それが「現在」なんじゃないか、って。

註)
*1.  Cf. コロサイの信徒への手紙 1:16, ヘンドリクス・ベルコフ『キリストと諸権力』日本基督教団出版局, 1969.
*2.  Cf. ローマの信徒への手紙 1:20
*3.  Cf. ヨハネによる福音書 10:16

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