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朝茶事の掛け軸は、ぜひ円相を。

小学生から中学生にかけてオカルト少年だった自分は、西欧や東洋のエソテリックな本を、読み漁っていた。

でもまあ、エソテリックの意味は、選ばれし特別なインナーサークルの中だけで開示される秘教だから、中学生が本屋で買って入手できる知識、という時点で、ぜんぜんエソテリックではないけど。。。大衆化された消費財としてのスピリチュアリティって言ったほうが、正確か。

そういう知識の探究って、中学生の自分には、たまねぎの皮を果てしなく剥き続けることのように感じられた。

皮を一枚めくると、また皮があり、また一枚めくるとまた皮があって、どんどん剥いて行って、最終的には中身がなんなのかよくわからない、という感覚。。。

このエソテリックな探究における「たまねぎ」の感覚を言い当てている文章を、フランス文学者・中田健太郎氏が「入れ子のなかの物語 澁澤龍彦『思考の紋章学』とその後」と題して書いてた。(『ユリイカ 詩と批評』2007年8月号 特集「澁澤龍彦 二十年目の航海」掲載)

たまねぎは、確認するまでもないことだが、幾層もの皮をまとい、同心円構造の扇球形を成している。同心円というのが重要で、この野菜は、何重もの皮によって、「一個の球体が途方もなく拡張したり縮小したり」する入れ子の構造を体現しているわけである・・・
・・・たまねぎ構造の不在の中心に、なにも還元されずに残る実在はありえるのか?
・・・70年代以降の澁澤の、外部へと拡大していくエクリチュールの運動は、たしかに、いわゆる形而上学的問いには背を向けていた。しかし、それとは裏腹にこの作家は、たまねぎの同心円的球体とは異なって、なににも還元されずに残る、元素的球体への憧れを描き続けてもきたのだ・・・

果てなき探究の果てにあるとされる、まぼろしの、元素的球体。。。

なんとなく、禅の十牛図の第8図「人牛倶忘」にでてくる「円相」のイメージがするよね。

茶室の掛け軸にも、墨でぐるっと書いた円が、あるじゃん。あれって、探究者である自分が、超越的存在と一体となって、言葉では言い表せない境地を経験する、ってことを、絵で表していると思う。

いったい、その境地にたどりつくのに、どれだけの探究と、どれだけの時間がいるんだろうか。。。と、十牛図を眺めながら、よく、ため息をついていたものだっけ。。。

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それがねー。。。教会に行ってみて、ほんと、拍子抜けした。。。

だって、教会でのパロール(話し言葉による言説)って、こうなんだもの。。。

イエスは、あなたのために十字架にかかり、よみがえられました。イエスを信じましょう。そしたら、イエスが、あなたの心のなかに入ってくださり、あなたは救われます。。。では、祈りましょう。アーメン。祈りましたね? ハレルヤ! おめでとうございます、イエスは、あなたの心のなかに、いま、おられます。以上、オシマイ *。

超越的存在を探し求める、気の遠くなる、ながーいプロセスを、段階を踏んで示しているのが、禅の十牛図だ。でも、なんだろうね。。。教会の言説というのは、そういうプロセスをぜーんぶすっ飛ばして、あなたの四畳半にいきなり牛を、ぶっ込みますよ、はい、いま、ぶっ込みました、みたいに自分には感じられて。。。だから、スゴイ感動した。。。だって、もう、オレ、たまねぎの皮を剥かなくって、いいんじゃね?って。

あの日、中学生の自分は、たどたどしく祈った。そうして、イエスが自分の心のなかに入ってくれた、感じた。

それから、どうしたかというと、日常生活に、もどって行った。

今日の聖書の言葉。

神の内にいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。
ヨハネの手紙一 2:6 新共同訳

クリスチャンの場合、禅の十牛図でいったら、いきなり第十図「入鄽垂手」(にってんすいしゅ・日常生活に戻るの図)からスタートする感じなんだよね。

イエスといっしょに、日常生活をはじめる。そこで思い描くのは、古い自分は過ぎ去って、イエスが、あたらしい自分を生きてくれること**。

肩の力を抜いて、イエスに自分をゆだねて、イエスが生きたように、生きようとしてみる。。。それは、自分にあたえられた小さな十字架を負って、その十字架につけられて、日々、自分が死んでいくこと、そして、あたらしい自分に、日々、よみがえっていくこと。

ええ。。。牛は今日も私と一緒に四畳半にいます。。。

註)
* ビル・ブライト『豊かな人生のための四つの法則』
** Cf. ガラテヤ 2:20

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