見出し画像

すべての願望が実現する世界を、あたりまえの日常として生きるには?

心に願ったことが、そのとおりになったら、これほどうれしいことはないよね。。。

いま、世界中のひとが願っているのは、かつてのようにまた、人と人が自由に交流できるようになること。それが実現することを信じて、いまは、忍耐深く祈りつづけていこう。

今日の聖書の言葉。

だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
マルコによる福音書 11:24 新共同訳

この聖書の言葉は、すごいよ。

パワーワードという表現があるけれど、これこそ正真正銘のパワーワードじゃないのかな。聖書のページのこの箇所に、赤えんぴつでアンダーラインをして、上から蛍光ペンを塗って、さらに、ラメ入り蛍光ペンで重ね塗りしたくなるぐらい。

信じて祈れば、何でも与えられる、って。。。なんで、こんなすごいこと、イエスは軽々と言ってのけられたんだろう? 

ふつうの牧師だったら、祈っても与えられなかった場合の保険を考える。というのは、残念な結果に終わる場合が往々にしてあるから、そういうときの辻褄合わせができるよう、あらかじめ補足説明を用意して、セットで語るであろうのに。まあ、自分もそうしているし(笑)

これは、自分の想像だけれど、こう考えている。。。

イエスは、いつも・つねに・父なる神の心を100パーセントキャッチしていて、だから、イエスはいつでも父の心を、そのまま行っていたんだと思う。

はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。
ヨハネによる福音書 5:19-20 新共同訳

だから、その逆も、起きていたはずなんだ。つまり、父なる神は、いつも・つねに・イエスの心を100パーセントキャッチしていて、だから、父なる神はいつでもイエスの心を、そのまま行っていたにちがいないんだ。

父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。
ヨハネによる福音書 11:41-42 新共同訳

イエスは、そういう関係性のなかで父なる神と共に生きていたんだと思う。だからイエスにとって、そもそも、心に疑いを持つ、ということが無かったんじゃないのかな。

父なる神が、こう言ってる。。。それを、イエスが行うのは、ごく自然で、あたりまえのこと。

イエスが、こう願っている。。。それを、父なる神が、かなえてくれるのは、ごく自然で、あたりまえのこと。

そういう状態を、あたりまえの日常としてイエスは生きていた。だから、今日の聖書の言葉のような内容を、なんのためらいもなく、さらっと言ってのけることができたんではないかと思う。

この父と子の関係性。。。ほんと、うらやましい限りだけれど。。。その関係性の中に、わたしたちも飛び込んでくるように、とイエスは招いている。

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」
ヨハネによる福音書 14:23 新共同訳

この関係性に飛び込んで行くにあたって、わたしたちは、自分の手にアマゾンのほしいものリストを握りしめている。。。でも、慎重に考えてみると、ひとたびこの関係に入ってしまったら、もはや、リストが実現するかどうか、なんて次元の問題では、ぜんぜんなくなることが、わかってくる。。。

だって、その関係に入ってしまったら、自分は父なる神の心を100パーセントキャッチして、そのとおり歩むようになるわけだから。。。それはもう、ある意味、自由になる人生ではなくなってしまうことを意味している。

そこに飛び込んで行くのは、やっぱり躊躇するよね。。。でも、飛び込めたら、すごいエキサイティングな人生になることは、まちがいないだろうなあ、と想像する。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?