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ああ、エルサレム、エルサレム。。。

詩編を読んでいると、ほんと、面白い詩編があるなあ、と感心する。いちばん不思議なのが、詩編87編だ。全文を紹介しよう。

詩編87編【コラの子の詩。賛歌。歌。】

聖なる山に基を置き
主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される
シオンの城門よ。
神の都よ
あなたの栄光について人々は語る。

「わたしはラハブとバビロンの名を
 わたしを知る者の名と共に挙げよう。
 見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも
 この都で生まれた、と書こう。
 シオンについて、人々は言うであろう
 この人もかの人もこの都で生まれた、と。」

いと高き神御自身がこれを固く定められる。
主は諸国の民を数え、書き記される
この都で生まれた者、と。

歌う者も踊る者も共に言う
「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。

どこがすごいかというと、敵も味方も超えた、すべての被造物の救いを、この詩編87編は歌いあげているんだ。

聖なる山神の都というのは、神殿を擁する聖なる都 エルサレムのことで、それはシオンとも呼ばれ、神の救いの計画においては、最終的に「あたらしいエルサレム」という姿で、天から下って来る 。

そして、この「あたらしいエルサレム」の住人になることが、イコール、天国の住人になることなんだ。聖書の最後におさめられた黙示録の結末部分で、それが描かれている。その寸法は、一辺が2000km以上ある巨大な立方体だ。地球の大きさと対比すると、こんなにもなる *¹。

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じゃあ、だれが「あたらしいエルサレム」の住民になるの? だれが救われた人々として登録される? ということなんだけど、詩編87編は、実にさりげなく、しかも、ものすごいことを、言っているんだ。

  わたしはラハブとバビロンの名を
  わたしを知る者の名と共に挙げよう。
  見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも
  この都で生まれた、と書こう。
  シオンについて、人々は言うであろう
  この人もかの人もこの都で生まれた、と。

「あたらしいエルサレム」の住民となる人々。。。

それは、まずラハブ。これは、恐怖と悪のかたまりのような怪獣だ。その名前は「騒音」「暴動」「傲慢さ」「混沌」を意味していて、ヨブ記に出て来る怪獣レビヤタンと同一視されている *²。とにかくコワイやつ。

次にバビロン。これは、巨大な軍勢でもってエルサレムを攻撃し、神殿を焼き払い、ユダヤの民を強制的に連れ去った、悪の帝国だ。

そしてペリシテ。これは、パレスチナの語源になったペリシテ人、すなわち、海洋民族フェニキア人で、彼らは何度となくイスラエル・ユダヤの民を攻撃してきた。そのフェニキア人が築いた海上都市がティルスだ。

さらにクシュ。これは、エジプトの南部にあるエチオピアのこと。彼らも、100万もの軍隊と300両の戦車でもってユダヤに攻め上って来た。ユダヤの民は、その半分、58万の戦士で立ち向かわなければならなかった *³。

。。。つまりね、ここに名前が挙げられているのは、イスラエル・ユダヤの民にとって、天敵中の敵なんだ。どんなに憎んでも、憎み足りない「悪いやつら」ばっかり。。。バビロンに至っては、地上のエルサレムを破壊し、神殿を焼き払った、大悪党だよ。。。

そうであるにもかかわらず、神は言うんだ。わたしは、この人々がエルサレムで生まれた、と書こう、って。それを見て、みんなが言うんだ。この人もかの人もエルサレムで生まれた、って。

いと高き神御自身がこれを固く定められる。
主は諸国の民を数え、書き記される
この都で生まれた者、と。

そうして、地上において敵であった間柄どうしが、歌いながら踊りながら、言いかわすんだ。わたしたちの源は、すべてエルサレムの中にある、って。

つまり、詩編87編が提示するのは、かつては敵であり、憎み合っていた者たち同士、怪獣も、悪の帝国も、宿敵中の敵も、絶対ゆるせない憎悪の対象も、一緒になって暮らすようになる、歌いながら踊る、それが、世界の終わりにおいて実現する「あたらしいエルサレム」だ、ということなんだ。

今日の聖書の言葉。

神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。 わたしを試し、悩みを知ってください。
詩編 139:23 新共同訳

天国が、そういうところだ、と知ってしまったら、そんな天国、行きたくねーよ、というのが、わたしたちの正直な気持ちじゃないだろうか。

だって、地上では、あいつも、こいつも、憎くて、ゆるせない、敵であることに、変わりはないから。。。

そういう、わたしたちの気持ちを。。。そういう、わたしたちの心の奥深いところにある悩みを、神はじっと見ている。。。

そして、それでも、神は言うんだ。天のエルサレムに住む日にそなえて、いま生きているあいだから、心をいれかえて、あたらしい人間になるんだよ、なれるんだよ、って。

それは、わたしたちの努力や願いでは、絶対に実現不可能なことだ。けれど、それを可能にするために、神のひとり子イエス・キリストは、十字架にかかり、よみがえってくれた。わたしたちを、ゆるしてくれた。ゆるすことによって、あたらしい生き方を示してくれたんだ。

わたしたちは、いま、だれかを、ゆるすように、招かれている。

そして今日、わたしたちは、まだ、ゆるすことができないでいる。だから、みんなが世界中で立ち往生してる。そのわたしたちの悩み、苦しさを、神はじっと見ている。。。

註)
*1. Cf. 黙示録21:1-26
*2. Cf. ヨブ記40:24ff, イザヤ27:1, 詩編74:14
*3. Cf. 歴代誌下14:7ff

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