見出し画像

アクシオスとアディアフォラ

日本が鎖国を解いたとき、西洋の文物がドバーッと入って来た。そのとき、日本語に対応概念が無いものをどう訳すか、苦労したらしい。で、西周という天才が、新しい訳語をバリバリ作った。

「哲学」「芸術」「理性」「科学」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「帰納」「演繹」「定義」「命題」「分解」など、西周が考案した訳語をとおして、世界が日本に開かれることができた。西先生、ありがとう。。。

でも、あたらしい概念は、世界で次々に生まれて来る。訳語の出来上がりを待つまでもなく、その概念を使い始めなきゃいけないときは、しょうがないから、カタカナで使うしかない。

フィーチャーする、ファシリテートする、フィックスする。。。こういうのは、ほんと、訳せない。

また、古い概念であっても、日本で生活している限り、ほとんど使わない場合には、訳語の要請がないから、カタカナで使い続けてしまう。

そういう、古いけど、カタカナで使われてる教会用語のなかで、自分が好きなのが、二つある。アクシオスとアディアフォラだ。

アクシオス
アクシオスは、正教の聖体機密(ミサ)で使われるギリシャ語由来の単語。あたらしい聖職者を任命するために行われる礼拝のなかで、主教がアクシオスと発声すると、聖歌隊がアクシオス、アクシオス、アクシオス、と三回となえる。意味は、ふさわしい、価値がある、認められた。この聖職者を、主教の目に適った者と認めます、承認しました、ということだ。

アディアフォラ
アディアフォアは、宗教改革から出てきた単語。ざっくり言うと「どっちでもいいです、好きにして」という意味。たくさん伝統や習慣を抱えた教会を、聖書に照らして総点検した宗教改革のとき、意見が二つに分かれた。聖書に根拠が無い習慣は根絶すべき、という人たちと、大切にしてきた習慣なら聖書に記載が無くても続けていい、という人たちだ。激しめの論争を経て、アディアフォラに着地した。「どっちでもいいです、好きにして」

今日の聖書の言葉。

わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
フィリピの信徒への手紙 4:9 新共同訳

使徒パウロは、クリスチャンにとって、敬意をはらう使徒のひとりだ。だって、新約聖書の大半は、彼が書いた手紙で占められてるんだもの。パウロは、クリスチャンたちに手紙を書いて、何か判断に迷ったら、わたしの生き方に倣いなさい、と勧めた。つまり、パウロのアクシオスに倣う、ということ。

問題は、パウロが天に召されたあとだ。後継者となった人たちの長きにわたるアクシオス、アクシオス、アクシオスの積み重ねによって、教会の伝統と習慣が形成された。それが、伝統的教会。

そうやってできた伝統が厚くなり過ぎたから、聖書に照らして根拠がないものは廃止する、という宗教改革が起きたんだけど、どれを廃止して、どれをアディアフォラにするかは、クリスチャンの中で意見が分かれた。いまなお分かれている。いわゆる「教派」の教会はこうして生まれた。

ほんと、いろんな立場のクリスチャンがいる。たとえば、礼拝でオルガンを使わない、なぜなら、聖書にオルガンは出てこないから。クリマスを祝わない、なぜなら、聖書にイエスの誕生日は12月25日と明記されていないから。使徒信条を唱えない、なぜなら、それは聖書のテキストそのものではないから。。。えーっ、と思ってしまう。

アクシオスとアディアフォラの掛け合いの具合によって、いろんなカラー、いろんなスタイルの教会が、百花繚乱のように生まれているのが現状なんだ。

世の終わりがきて、新しい天と、新しい地が到来し、みんなが天のエルサレムにいっしょに住むようになったら、そこでは、礼拝が毎日行われると思うんだけど、それは、いったい、どんなスタイルになるんだろうねー。

ひそかに自分は「毎回スタイルを変えてくるのでは?」と期待している。実際、行ってみてハズレだったら、その時はパーリーゲートカフェ(真珠門茶館)であなたにコーヒーを奢りましょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?