見出し画像

変われる。。。変われない。。。変われる。。。変われない。。。変われる。。。

人は、変われるか? という問いがあると、変われる、という意見と、変われない、という意見と、分かれるよね。

自分のことをかえりみると、変われてる点もあれば、ここは変わりたい、と思いながらも、いぜん変われてない点があって、自分的には「変われるような、変われないような」という、中途半端な答えになってしまう。すみません。。。途上の人です。。。

人間には、チョコレートからはじまって、ありとあらゆる種類の物質や行為についての嗜癖や依存症がある。けれど、そのそれぞれに応じて、依存症回復プログラムというものも、存在している。

よく知られているのが、アルコホリックアナニマス(AA)という自助グループだけど、興味深いのは、シラフで生きる道(ソブラエティ)の最初のステップは、自分は自分の努力では変われない、という事実を素直に認め、受け入れることなんだ。

これって、なんとなく、キリスト教の考え方に似てる。人間は、罪人だから、自分の努力では罪から救われない。そのことをC.S.ルイスは「自分で自分の髪の毛をひっぱり上げても、空を飛べないのと同じ」と表現した。

自分は変われない、という事実を認めたとき、人は変わり始める。なんというパラドックス。。。またもや、絶対矛盾的自己同一ですか。。。

でも、それだけじゃないんだ。回復プログラムでは、ハイヤーパワーに自分をまったく明け渡し、ゆだねることが大切、とされている。ハイヤーパワーというのは、神のことなんだけど、回復プログラムは特定宗教に肩入れしないフリーな立場なので、どの宗教や無宗教のひとでも抵抗なく使えるよう、ハイヤーパワーと呼んでる。

今日の聖書の言葉。

ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
コリントの信徒への手紙二 3:17 新共同訳

自分はクリスチャンだから、ハイヤーパワーという用語からは、神から注がれる上からの力である「聖霊」を、思い浮かべる。聖霊が、わたしたちに臨むと、わたしたちは、奴隷のくびきから解放され、自由になるんだ。

前に、神の本質から流れ出た、神の諸属性のすべてが、キリストという単一の領域に展開して、その本質とキリストとをむすぶパス・接続線が「聖霊」だ、ということを書いた。

本質は「父」、キリストは「子」、パスは「聖霊」で、これで三位一体になる。

聖霊は、父とキリストを結んでいるだけではない。

わたしたちがイエス・キリストによりすがるとき、わたしたちの存在は、聖霊をとおして、キリストに結び合わされるんだ。

そして、キリストのうちに満ちている神の諸属性が、聖霊をとおして、わたしたちに流れ込んでくる。パウロはガラテヤ書で、それらの諸属性の主要なものを、次のように挙げている。

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
ガラテヤ人への手紙 5:22-23 新改訳2017

自制、とは、セルフコントロール。。。聖霊にみたされる経験をしたサムエル・ローガン・ブレングルは、自分の証しとして「前は止めれなかったピーナッツの食べ過ぎが、やめられた!」と、書いている。

聖霊に満たされて、わたしたちが手にするのは、ピーナッツの代わりだけではない。

わたしたちが聖霊をとおしてキリストに結ばれるとき、神がわたしたちの全存在を所有し、同時に、わたしたちは神の全存在を所有しているんだ。

この状態を、ルターは、ウニオ・ミスティカ(キリスト神秘)と呼んだ。そして、それこそが、救いの機序(オールド・サルティス)の最終段階だとした。つまり、わたしたちの巡礼の旅がめざす、最後の行程だ。

わたしたちは、小さな自分にきゅうきゅうとして、あれも、これも、全部、手の中に握りしめようとしている。力を込めて握り過ぎて、指と指がくっついちゃって、自分で手を開くことすらできない。でも、思い切って、手を開いたら、そして、中にある何かを手放してしまったら、その瞬間、わたしたちは、キリストにある神のすべてを、受け取ることができるんだ。そうしたら、わたしたちは、もう奴隷ではない。神の子になっている。そこには、聖霊がもたらす自由があるんだ。

手をひらいて、レッティン・ゴーしようじゃありませんか。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
コリントの信徒への手紙二 3:18 新共同訳


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?