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ゴーストの探求。。。

日本では、お盆は「あの世」と「この世」を隔てる結界の扉が開いて、死者が大挙してやって来る、特別な祝祭だ。世界観の構造としては、ディズニー・ピクサー映画『リメンバー・ミー』で描かれるメキシコのそれと似ている。というか、ほぼ同じ?

おもしろいことに、セキュラー(非宗教)を標榜して、ふだん超自然的なことを言わないメディアが、お盆になると霊の目撃談とか放送してくる。放送コードに矛盾してるんじゃね? と思うけど、たぶん、日本人にもメキシコ人にも共通するDNAの何かが、そうせずにいられなくさせるのかも。

びっくりしたのは、根っから無神論者である知り合いが、彼自身のガチな「心霊体験」をお盆のトピックとしてSNSで紹介したことだ。。。オレは霊を信じないけど、霊を見た、と但し書きを付けた上でだけど(笑) 

やっぱり、お盆といったらゴースト。。。

ということで、これからちょっとゴーストを探求してみよう!


ゴースト

なんと、古い英語の聖書では、神の霊である「聖霊」のことをホーリー・ゴースト(Holy Ghost)と言うんだよね。

いまでこそゴーストはお化けだけど、古い英語のゴーストは、ドイツ語のガイスト(Geist)みたく霊全般を意味してた。そのゴーストに、ホーリー(神聖な)が付くと、霊全般ではなく「神の霊」という特定の霊を指すことになる。

霊を指す単語は、人類のどの言語にも必ずあるものだから、そういう意味では、霊は普遍的な現象なんだろうな、と思う。神を指す単語を持たない言語は、耳にしたことがあるけど、霊を指す単語を持たない言語があるとは、聞いたことがない。まあ、もちろん、霊という単語(シニフィアン)と、その単語が意味する概念(シニフィエ)が世界中どの言語にもあるからといって、その単語が指す対象そのもの(レフェラン)が実在すると言えるか、については、諸説あるわけだけど。。。

ただ、自分はクリスチャンなので、霊魂実在説で考えたいと思う。

そういう世界観を生きていると、やっぱり、お盆の心霊特集とか見て、よりリアルにゾッとするよね(笑)

ゾッとする。。。

ドイツの神学者のルドルフ・オットーは、人間が霊に遭遇して、全身の毛が逆立つゾッとする体験。。。戦慄と言うけど。。。それが、そもそもの宗教の起源じゃないか、という説明をしている 。その戦慄は、山でヒグマに遭ったときの戦慄とは、ちょっと違う。なので、霊と遭遇した戦慄を「ヌーメン」と、ルドルフ・オットーは名付けた *¹。

この「ヌーメン」が端的に表現されてるのが旧約聖書のヨブ記 4:13-15 だ。

夜の幻で思いが乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、おののきと震えが私に降りかかり、私の骨々の多くがわなないた。ある霊が顔の上を通り過ぎ、私は身の毛がよだった。

まさに全身、鳥肌が立つ瞬間。お盆にピッタリ。。。

これ以外にも、旧約聖書には、霊との遭遇や概念が「事件の報告」ないし「禁止事項」というかたちで、あちこち記録されている。

霊にもいろいろ

神の霊
旧約聖書に記載された「事件の報告」でいうと、イスラエルの民が国王擁立を要求したので、預言者サムエルがしぶしぶ応えて、美青年サウルに聖別の油を注ぎ、王に任命するんだけど、その直後、神の霊がサウルに激しく降って、サウルは預言の言葉を語り出した、という記録がサムエル記上10章にある。

これを読むと、霊のカテゴリーとして「神の霊」があることがわかるよね。

悪霊
別の「事件の報告」では、王となったサウルが、神に背いて罪を犯してしまい、その結果、彼は王位から退けられることになるんだけど、その日以来、神の霊はサウルから離れ去って、悪霊が彼に降るようになり、ひどく苦しめられた、という記録がサムエル記上16章にある。

これを読むと、霊のカテゴリーとして「悪霊」があることになる。

死者の霊
さらに、別の「事件の報告」では、預言者サムエルが死んでしまい、アドバイザーを失って人生に行き詰まったサウルが、悩んだあげく霊媒のもとを訪れ、あの世で眠っていた預言者サムエルの霊、つまり死者の霊を呼び出してもらった、という記録がサムエル記上28章にある。

これを読むと、霊のカテゴリーとして「死者の霊」があることになるよね。

人間の霊
そして、さきほどの「ヌーメン」(霊と遭遇する戦慄)が出てきたヨブ記の後半、ヨブになんにも言い返せなくなった三人の友人を見かねて、いきなり語り始める謎の青年エリフが、「私にはことばがあふれていて、内なる霊が私を圧迫している」から黙ってられない、と言って喋った内容が、ヨブ記32章から37章に記録されてる。

これを読むと、霊のカテゴリーとしては、内なる霊、つまり「人間の霊」があることがわかる。

あと、動物の霊にふれてる箇所も旧約聖書にはあるんだけど、それは省略。

小まとめ
旧約聖書の記載を見ると、霊全般のカテゴリーの中に、すくなくとも4つの分類があって、それらは「神の霊」「悪霊」「死者の霊」「人間の霊」ということになる。

ダメ、ぜったい。。。

その上で、旧約聖書には「禁止事項」が出て来る。それが、霊媒をつかって死者の霊と交流することはダメ、絶対。。。という厳格な禁止規定なんだ。レビ記19:31だ。

ちなみに、その節の直後に、白髪のお年寄りを見たら必ず起立しろ、敬意を払え、と言われてる。これは、クリスチャンは絶対に降霊術をやっちゃだめ、というのと同じぐらい深刻な重要性をもって、クリスチャンは電車でお年寄りを見たら、絶対に席を譲れ、と命じられていることになるんだ。。。

上記の「禁止事項」によって、死者の霊については当面、考えなくて良いことになる。。。だって、交流禁止だもの。。。

なので、考慮の対象は「神の霊」「悪霊」「人間の霊」の三つに絞られるんだ。

今日の聖書の言葉。

わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
ガラテヤの信徒への手紙 5:25 新共同訳

ここで「霊の導きに従って生きる」と言われている。けれど、注意しないといけないのは、自分はどういう霊に導かれて生きるのか、ってことだよね。

だって、霊には「神の霊」「悪霊」「人間の霊」があるというんだから。霊だったら、なんでもいいですよー、というわけにいかない。

霊の識別

ここから、霊だから何でもありがたがる、という姿勢ではなくって、その「霊」が、どっからきてるか、見きわめなきゃいけない。霊の識別をしなけりゃならない、という話になるんだ。

人間が「人間の霊」に導かれて生きてると、それは、自分の中だけで完結してる自家発電だ、ということになる。また、「悪霊」に導かれて生きたら、結果は悲惨になるのは目に見えてる。

だから、やっぱり、ちゃんと識別して、「神の霊」に導かれて生きたいと思う。だけど、じゃあ、神の霊には、どんな特徴があるんだろう?

神の霊の特徴

新約聖書の使徒言行録を読むと、特徴的な「イエスの霊」という表現が出てくる。旧約聖書は、神の霊について、いろいろ書いてるけど、新約聖書がおもしろいのは、神の霊とはイエスの霊だ、と言ってるところなんだ。

使徒言行録は、イエスの弟子たちが、エルサレムで五旬祭(ペンテコステ)の日に「神の霊」である聖霊に満たされる体験をしたことから、スタートしてゆく*²。聖霊に満たされた弟子たちは、いろんなところに行って、福音を伝えるんだけど、彼らは、いつでもどこでも神の霊がいっしょにいて、力をくれるのを感じていた。そして、あるとき、弟子たちは確信したんだ。あー、この神の霊って、イエスの霊だ!って。

というのも、弟子たちは三年間にわたり、イエスと一緒に寝起きし、ともに食事し、語り合う生活を、毎日やってたわけだから。。。だから、聖霊にふれられたとき、あー、これはイエスだ、って、直観的に確信したわけだ。そう確信した弟子たちが、聖霊を「イエスの霊」と呼んだことが、使徒言行録 16:7 に記されている。あと、フィリピの信徒への手紙 1:19も、そう。

神の霊は、聖霊。。。聖霊は、イエスの霊。。。

イエスの霊に満たされた弟子たちは、イエスの名によって人々の病気をいやし、悪霊を追い出していく。使徒言行録のあちこちに、そうした出来事が記録されてる。

小まとめ
新約聖書の使徒言行録を見てわかるのは、復活したイエスが、聖霊をとおして弟子たちにはたらいていたこと。弟子たちは聖霊を「イエスの霊」とみなしていたこと。イエスの霊の前で(イエスの霊に満たされた弟子たちの前で)悪霊たちは敗北して逃げて行くしかなかった、ということだ。

ちょっとした適用
お盆の心霊特集を見て、鳥肌がたって、夜おトイレに行けないというひとは、ご安心ください。イエスの霊の前では、この宇宙のすべての悪霊が泣きながら逃走します。。。

ここまで、「神の霊」「悪霊」「人間の霊」について見てきたけど、使徒言行録で見るとおり、神の霊=イエスの霊の前では、逃亡するしか悪霊には選択肢がない。。。よって、この時点でもう、悪霊について考慮する必要は、なくなるよね。。。だって、逃げちゃうんだもの。。。

そこで、最後に考えるべきことは、「神の霊」「人間の霊」の関係だ。

だから、何?

お盆ということではじめた、ゾッとする、このヌーメン的な話だけど、じゃあ、それが現代の私たちに何の関係があるの? というと、けっこう大きな関係があると思う。

というのは、ローマ人への手紙8章でこう言われているからだ(引用聖書は新改訳2017)。

もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。(9節)

神の御霊に導かれる人はみは、神の子どもです。(14節)

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。(15節)

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(16節)

上記では、三つのことが言われている。

第一、神の霊は、私たちのなかに住んでくれる。
第二、神の霊は、私たちを神の子どもにしてくれる。
第三、神の霊は、私たちが神の子どもとなったことを「証し」してくれる。

これらは、どれも、自分の身に、あなたの身に、リアルに起こり得る話だ。

つまり、二千年前の古い伝承や記録というだけではない。。。いま・ここで、追体験・実体験が可能なことなんだ。

使徒言行録を読むと、伝えられた福音を、ひとびとが聞いて、イエスを救い主として信じた瞬間、ひとびとは聖霊に満たさた、と記録されている *³。

イエスを信じると、それが契機となって、聖霊が、信じるひとのうちに宿ってくれる。それは、新約聖書が書かれてから、いまにいたるまで、世界のいろんなところで、繰り返し、起きていることだ。たぶん、いま、この瞬間も、地球上のだれかが、それを体験しているはず。

自分のなかに、神の霊が宿る。でも、べつに、そのことによって、自分が消滅したり、自分が自分でなくなったり、自分の霊が消えてしまうわけではない。次の証拠聖句が示しているように、「自分の霊」は「神の霊」と、いつもいっしょにいる状態になるんだ。

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます
ローマ人への手紙 8:16 新改訳2017

そして、自分のなかに「神の霊」と「自分の霊」が、いつもいっしょにいる状態になった上で、神の霊は、自分の霊に対して「証し」を与える、というんだ。

内なる確証

この「証し」のことを、神学的には確証(Assurance)と言う *⁴。どういうことかというと、自分はイエスを信じた結果、救われて神の子どもになった、それが自分には「わかる」ということ。

その「わかる」というのが、確証だ。

なんでわかるの? と言われても、まあ、わかるから、わかるんだ、としか言えない世界。「自分は、わかるので、わかります、以上」でオシマイ。

。。。なんだけど、その「わかる」ことのバックグラウンドで、神の霊=聖霊=イエスの霊がはたらいていて、それが、私たちの霊に対して「証し」しているから、だから、わかるんだよ、という説明になる。

超親密な世界

そして、そいういう確証を持っているひとは、神に向かって「アッバ、父よ!」と呼びかけて、祈りはじめるんだ。

この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
ローマ人への手紙 8:15 新改訳2017

アッバとは、イエスが話してた古代アラム語で「お父ちゃん」という意味になる幼児語。それは、神との親密な関係性を示す表現だ。だって、よっぽど親密でなけりゃ、おいそれと神に向かって「お父ちゃん」なんて、言えないじゃん。。。

その親密さの度合いが、どれほどかというと、それは「神の霊」が私たちのうちに住んでくれるほど親密だ。

つまり、距離がゼロの超親密な関係だ。密です!密!(笑)

結論として
私たちは、神との超親密な関係に、願いさえすれば、いつでも、すぐに入ることができる。それはいつでも、どこでも、追体験可能、再現可能な体験だ。神の霊=聖霊=イエスの霊が、自分のうちに宿ってくれて、「神の霊」と「自分の霊」のあいだの距離が、ゼロになる。。。これを超える心霊体験は、ない。そして、これ以上の密は、ない。

いかがでしたでしょうか。まだまだ暑いですけれど、どうぞ霊によって涼しくなって、お過ごしください。

註)
*1.  ルドルフ・オットー『聖なるもの』1917年刊
*2.  Cf. 使徒言行録 2:1ff
*3.  Cf. 使徒言行録 10:44-45
*4.  Cf. ウエストミンスター信仰基準 18:1-3

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