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初秋に顔を洗う。。。

自分は、食べるのがとても早い。あっと言う間に、食べ終わってしまう。

それに比べ、家人は、やたらと食べるのが、遅い。こっちが唐揚げ5個目に突入しているとき、まだ1個しか食べていないぐらいな感じ。

過去には、家人が、さあこれから食べよう!と思ったときに、もう皿をカラにしてしまっていて、謝罪したこともある。以来、大皿ではなく、めいめい皿になった。。。でも、なぜか、ときどき大皿になり、そういうときにかぎって、やらかす。。。繰り返される謝罪。。。

こうした反省を経て、いまでは、唐揚げは(それ以外でも)3個目で箸を起き、卓上の行方をしばらく静観するようにしている。

これってつまり、自分には、根本的な他者への配慮、つまり、愛が欠けている、ということだと思う。

クリスチャンになって40年近く。。。クリスチャンは、イエス・キリストに結ばれている存在。だから、キリストのような品性、ふるまい、愛の持ち主に変化させられていくのだ。。。そう教えられ。。。そう信じて。。。でも、なかなか、そうはなれずに、ゆえに、何度も悔い改めつつ歩んできている現状だが、まだまだ、ほんとうの愛は、遠い。。。このままだと、もしかしたら自分、すっごく長生きするんじゃね?と思ってしまう。

今日の聖書の言葉。

愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
ローマの信徒への手紙 13:10 新共同訳

他者の幸福に沿って、自分のふるまいを決定する。それが、愛だと思う。

神の御心は、旧約聖書では律法を通して示されている。律法とは、ひとことでいえば、他者への配慮を文書化したものだ。もし、すべてのひとの心が、ほんとうの愛に満たされている、そういう世界になったら、文字に書かれた律法は不要になるだろう。。。だって、すべてのひとのふるまいが、すべて他者の幸福に、自然に沿ったものになるわけだから。

そういう世界になることを目指して、クリスチャンとして祈りつつ、願いつつつ、生きている。そういう意味では、途上の自分、途上の世界だ。

どうしたら、他者の幸福に沿って、自分のふるまいを決定することができるんだろう?

そのためには、他者の願いと、自分の願いを、両てんびんにかけて、絶妙なバランス点を見つけないといけないよね。。。

バランス点は、どこにあるのか。。。それは、状況によって、刻々と変わっていくものだから。。。だから、寝ぼけてはいられない。ちゃんと目を覚まして、相手の願いと、自分の願いを、両手にとって、その重さをはからなければいけない。

だけどねー。。。ついつい、眠り込んでしまうんだよね。。。いや。。。ほんとに眠っているわけではなく、物理的には目が覚めていて、意識はあるんだけれども、他者のことも自分のことも、客観的に意識することができていない状態、という意味での眠り。。。起きてるんだけど、眠ってるんだ!

だからなのかね。聖書には「目を覚ましていなさい」という忠告が、やたら、あちこちに出て来る。

目を覚ましていなさい。
信仰に基づいてしっかり立ちなさい。
雄々しく強く生きなさい。
コリント一 16:13 

だめだ。。。顔でも洗ってこよう。。。


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