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帰ろう、帰ろう、どこかに、帰ろう。。。

ある介護施設が、認知症のひとの徘徊に悩んだすえ、ついに、徘徊専用のランウェイを作ってしまったそうだ。エンドレスの回廊を、いつまでも歩き続けられて、しかも、安心安全も確保されているという。。。

「おうちにかえりたい!」という高齢者に、「おかあさん、なに言ってるの? おかあさんのうちは、ここでしょ?」と子どもたちがいくら言い聞かせても、「そうじゃないの、おうちにかえりたいの!」と言って、どこかへ歩いて行こうとする姿、とか。。。なんか、せつない。。。

帰ろう、帰ろう、どこかに帰ろう。。。だから、そこに向かって、歩いて行かなければいけないの、止めないで、行かせてちょうだい、という潜在意識下の使命感というか切迫感みたいなものが、人間には普遍的にあるのかもしれないねー。

今日の聖書の言葉。

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
フィリピの信徒への手紙 2:13 新共同訳

自分が、自己という狭い範囲から抜け出て、対象に向かって進んで行こうとすること。。。それが、人間の意識が持っている「志向性」なんだけど、われわれが抱く注意とか興味とか、関心、好奇心、冒険心、警戒心、探求心とか、こういう人間の心のはたらきは、あらかたすべて、この「志向性」のなせるわざだ、と言うことができるかもしれない。

カトリックの第二バチカン公会議の立役者のひとり、カール・ラーナーという神学者は、この人間の「志向性」は、神に向かって行くよう仕組まれているものだ、と説明した。ラーナーは、人間は例外なくすべて「匿名のキリスト者だ」と言ったんだけど、その真意は、人間はすべて、神に向かって行くように仕組まれた「志向性」を持っている、ということにある。

じっとしてれば安全なのに、なんで、あの山の向こうに何かあるかもしれないと思って、危険を冒して、崖を登ろうとするのか? 

ここにいれば満たされてるのに、なんで、この海の向こうに新しい土地があるかもしれないと思って、小さな船で、大海原を渡ろうとするのか? 

コロナ禍の自粛で家にいなければならないし、用件はあらかたZoomで済ませてしまえるのに、なんで、リアルに誰かに会いたくて仕方なくて、散歩と称して外を出歩いたりしてしまうのか?

自分の家で静かな余生を過ごせばよいはずなのに、なぜ家族の制止をふりきって、「おうちにかえりたい!」と、自分でもわからない、でも、帰らなければならない、どこかへ向かって、歩いて行こうとしてしまうのか?

カール・ラーナーによれば、それらはすべて、人間の中に仕組まれた「志向性」のせい、なのだ。

そうして、わたしたちを内側から駆り立てる、この、うずうずした気持ちは、それを仕組んだ当の本人。。。つまり、創造主である神に邂逅するまでは、ちっともおさまることはないのである。


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