この宇宙で「神」と自分と完全に2人きりになるスペース、っていう話です。
心にやましいことがあると、ぜんぜん幸福ではない。
だから、神さまに「ごめんなさい」と言って、ゆるしてもらおうとする。
で、ごめんなさい、って言ってみる。
それから、自分に言い聞かせる。
いまや、神さまが「ゆるす」と言うんだから、自分も自分に「ゆるす」と言わなくっちゃならないだろ?
なので、ゆるす、と言う。自分に向かって。
すると、ゆるされた気分になる。
こうして、不幸は去り、幸福がやって来る。。。
。。。なんていうことが果たして、ほんとうの「悔い改め」だと言えるのだろうか?
今日の聖書の言葉。
悔い改めにもおそらく、いろんなレベル、いろんなグラデーション、いろんな重さがあるのかもしれない。。。
それこそ、自分の全存在を「神」の前に投げ出して、生きるか死ぬかの覚悟をもってする悔い改めというのがあるだろうし。。。
その反対に、ああ、やっちゃった、ごめんなさい (・ω≦) テヘペロ というような軽くて表面的に過ぎない悔い改めというのもあるだろうし。。。
さらには、他人から糾弾されたような場合に、外に対しては真剣に悔い改めているふうを装いつつも、実は内心は (・ω≦) テヘペロ に過ぎない、みたいなインチキな悔い改めもあるだろう。。。
はたして今日の自分が悔い改める悔い改めはいったいどの悔い改めだろう?
それは当事者である「神」と、もう一方の当事者である自分にしかわからないことなんだよね。。。
他人の悔い改めについて、自分はとやかく言うことはできないと思う。
だって、誰かから強要された悔い改めなんて、ほんとうの悔い改めじゃないじゃん?
やっぱり、自分の心が刺されて内側から発して来るのが、ほんとうの悔い改めだと思う。
この悔い改めが、ほんとうのほんとうに自発的で内発的なものであるのかどうかは、だれにもわからない。世界のだれにもわからない。全宇宙のだれにもわからない。
でも「神」と自分だけは、わかるんだ。
だから、悔い改めるときって、こう思うんだ。いま、自分と神は、この宇宙のなかで2人だけしか入れない小さなスペースで、1対1で向き合っているんじゃないか、って。
そこは、そこだけは、ほかのだれも入ってこれないスペースなのだ。
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