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コロナ禍のシーズンに便利に使える究極のサクラメント

サクラメント(聖礼典)と言われるものが教会にはある。

もとは古代ローマ帝国の軍隊の入隊式を意味していたサクラメント。

そこから、教会の儀礼である洗礼や聖餐が「サクラメント」と呼ばれるようになったらしい。

まあ、洗礼は入門式だから、入隊式とイメージがかぶったんだろうね。

神学的にはサクラメントは「目に見えない神の恩恵の目に見えるしるし」と定義されている。

たしかに、父なる神もイエスも聖霊も目に見えないよね。でも、神は現臨していて、信じる者のハートのなかに生きている。

その目に見えない神の働きを、目に見えるサインとして表現しようとするのが、サクラメントなんだ。

じゃあ、教会の生活のなかで、どういうものがサクラメントなのかと言うと、時代や神学者によってその数え方がちがう。

サンヴィクトルのフーゴーによると30個、ロンバルドゥスだと7個、プロテスタントではたった2個だ。

ちなみに、自分が属している教会では、洗礼も聖餐も行わず、代わりに入隊式を行うことによって、信仰を公けに言い表し、イエスの兵卒として教会に加わる機会としている。

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これって文字とおりの「サクラメント」だよね。だって、原意は軍隊の入隊式なわけだからさ。

今日の聖書の言葉。

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
ヨハネの手紙一 1:9 新共同訳

ルターは宗教改革を行ったとき、当時7個あったサクラメントを2個に絞った。洗礼と聖餐だ。それがプロテスタントの主流のやり方になったんだけど、ルターはさらに絞れないかと考えたんだって。

で、もし「悔い改めのサクラメント」というのがあれば、それ1個で足りるじゃん、と思ってたらしい。

でも、じゃあ、悔い改めという内面の行為を、どうやって外面に表示できるのか、という課題がなかなか難しくて、クリアできなかったみたいなんだ。

このルターの願望に沿おうという意図から生まれたわけではないんだけど、18世紀のアメリカで「恵の座」という仕組みが発明された。それは、説教壇の前にしつらえられたベンチで、人々はそこにひざまづいて悔い改めの祈りをささげた。

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つまり、罪を悔い改めるという内面の行為が、ベンチにひざまづいて祈るという外面の行為で表現できるようになったわけだねー。

もしルターが生きてたら、「恵の座」を見て、どう思うだろうね。「もうこれだけでいいじゃん!」と言うかどうか。。。

しかし、このコロナ禍で、教会の礼拝がお休みになり、「恵の座」にひざまずくことも、ままならない。ほんと、試練のシーズンだ。

このシーズンに自分は、元高円寺東教会牧師の故小西芳之助の本を読んで、その「称名」の信仰から大きな慰めを受けている。

無教会の内村鑑三の弟子である小西は、新約聖書のローマの信徒への手紙10:13を非常に重視している。

ローマ書の肝(きも)がそこにある、と言うんだ。

ローマ10:13は「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と言っていて、そこを根拠に、「主イエスよ!」と御名(みな)を呼びさえすれば、その瞬間、罪は赦され、救われ、永遠の命を与えられる、と小西は説く。

サクラメントにもいろんな種類があるけれど、「主イエスよ!」と呼ぶ称名の信仰は、場所も器具も所作も要らない、究極のサクラメントなんじゃないかと思う。

だって、ただ心に信じて、口でイエスの名を呼びさえすればいいんだから。

これなら、家でも、どこででも、いつでも、マスクをつけたままでも、簡単にできてしまう。

自分的には、このコロナの試練のシーズンに、称名の信仰は、ほんとピッタリなんじゃないかと思ってる。

なので、きょうも唱えるんだ。「主イエスさま!」って。何度でも。

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