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だーれも見ていないところで。。。

ネット検索でヒットしないものは、この世に存在していないもの、であるかのように錯覚してしまう、この時代。。。

みんな検索にひっかかるように、必死にSEO対策するわけで。。。

どんなキーワードを文章にまぜたら、よりひっかかりやすくなるか、みたいなティップス、ノウハウが、ゆきかっている。

でもねえ。。。よく考えて見たら、この世界に存在するもの、この世界で行われていることの、99.9パーセントは、ネット上には、あがってこないのではなかろうか?

自分の好きな作家や神学者のことにしたって、もちろん、ウィキペディアを見れば、プロフィールや思想の概略は載ってるけど、そのひとが書いたもの、そのものについては、いぜんとしてペーパー媒体でしか、この世に存在しないんだよね。。。ペーパー媒体にアクセスするには、図書館に行くか、古書店に行くか、ネット注文で買うかして、自分の指を実際に接触させ、ページを繰らなければならない。ペーパーに触れないかぎり、その世界は見えてこない。

今日の聖書の言葉。

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
マタイによる福音書 6:3 新共同訳

TwitterとかFacebookとかInstagramとかTikTokとかYouTubeで、ナマの世界をリアルに切り取っている。。。かのように見えるけれども。。。なので、世界の出来事のぜんぶを同時進行で目撃しているかのように思ってしまうんだけれども。。。

でも、そのファインダーの枠に収まっていない反対側で起こってることは、わからないわけじゃん?

世界のほとんどの出来事は、だれの目にも触れず、ずーっと隠されているんだと思う。

見て、知っているのは、当事者と、そして、神だけ。。。

世界から遠くかくれたところで、当事者である自分と相手、そして、おかくれになっているけれど、じーっと見て、すべてをもらさず記憶している「神」と。。。この三者だけが、あずかり知る、ひとの目にけっしてふれない出来事。

そういう出来事のなかでの、自分の言葉、ふるまい、そして、そうさせた動機こそが、うそいつわりのない、リアルな自分なのだと思う。

そのリアルな自分を、世界のひとは、だれも知らない。ただ、神だけは、知っているんだ。


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