マリアのように、反芻し。。。
コロナ禍の社会的隔離のなか、一億総瞑想、と言われていたけど、ようやく社会経済が再開。外に出て活動できるなー、と思ってたのも、つかのま。第二波到来で、感染拡大特別警報が出される状況となり。。。
もうちょっと、じーっと内省してなさい、という神様の御心なのかなあ。
その瞑想であるけれども、ひとくちに「瞑想」といっても、いろんなバリエーションがある。
なーんにも考えないで瞑想するのが「禅」。無の境地を目指せ。
人物・光景・感覚をイメージして瞑想するのが「観想」。ロヨラの『霊操』(スピリチュアル・エクササイズ)で使われている方法。
言葉を反芻することで瞑想するのが「黙想」。感覚中心のメディテーションと区別するために、言葉中心のそれは、コンテンプレーションと呼ばれる。
どれも、実際やってみると、長短があるように感じる。
まず「禅」だけど。。。心を無にするって。。。無理ゲーじゃん。
次に「観想」。。。これもねー、良いときは、良いんだけど、心が乱れているときに目をつむると、ヒエロニムス・ボッシュの「聖アントニウスの誘惑」みたいなクリーチャーが出てきて、イメージに集中できない。。。
そこで、心のなかで言葉を反芻する「黙想」。。。聖書から短い一節を選んで、暗記し、暗誦し、くりかえし、くりかえし、心のなかで反復し、意味を考えるという。これが、自分的には一番あってるように感じる。
なにより良いのは、歩きながらでもできること。。。だって、目をつむる観想だったら、歩けないもん。
今日の聖書の言葉。
わたしは仰せを心に納めています あなたに対して過ちを犯すことのないように。
詩編 119:11 新共同訳
「心に納める」という表現で思うのは、マリアの生き方だ。
マリアは、イエスの誕生をめぐって、いろんなできごとを体験した。
それらのできごとのなかで、彼女に語りかけられた、ひとつひとつの言葉を、マリアはすべて、たいせつに心に納めて、その後の生涯を通して、いつも思い返しては、意味を考え続けていたんだ。
マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
ルカによる福音書 2:19 新共同訳
ガブリエルから告げられた言葉。ヨセフとかわした言葉。エリサベツとザカリヤの言葉。羊飼いたち、博士たちの言葉。神殿で聞かされた老シメオンと女預言者アンナの言葉。。。
マリアは、イエスを育てながら、来る日も、来る日も。。。食事をととのえ、食器を洗い、洗濯、掃除、買い出し、家計のやりくり、家族の世話をしながら、たいせつなそれらの言葉を、心のなかで反芻し続けた。
人類の聖化の最終完成形態は、もちろん、イエス・キリストであるわけだけど、最終完成形態に全人類中いちばん接近しているのがマリアだと思う。
そのマリアは、俗世から隔絶した修道院で、瞑想と観想に打ち込んでたわけではない。特別な修行方法を使ってたわけでもない。
ごく普通の、日々の暮らしのなかで、神様から与えられた、たいせつな言葉を、心のなかでくりかえしながら、祈っていたんだ。
それは、きっとだれでも、わたしたちにだって、できることだと思う。
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