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需要と供給が消滅する?

需要と供給があって、両者のあいだにギャップがあるから、そこを埋めようとして経済活動が活発になるわけだけど、供給サイドが過剰になると、途端に経済活動は停滞してくる。

でも、しばらくすると、需要が回復するので、供給が再開し、でもまたしばらくすると、供給は過剰になり。。。

こうして、活発と停滞の波が、くりかえし、くりかえし、やってくるわけなんだけど、コンドラチェフのソビエトでは、需要と供給を完全に計算して調整できれば、波動は無くなるんじゃね? ということで、計画経済を行った。

ところが、世界は計算だけでは制御できない要素が、あり過ぎたみたいで、計画どおりには行かずに、ソビエトは崩壊してしまったんだよね。。。

世界をすべて数式で記述することが可能なら、その世界は決定論的な世界だということになるから、ただしい初期値をインプットすることさえできれば、未来永劫、世界のすべての動きを予測することが可能なはずなんだ。

でも、だれも、その初期値が何かを、知らない。。。なので、この世界は決定論的なのに、そのふるまいを予測できない、非決定論的に「見える」世界になっているんだ。

まあ、そうだよね。。。ソビエト時代より幾何級数的に発達したスーパーコンピューターと、クラウドでがんがん集めたビッグデータと、人工知能AIを組み合わせれば、世界の動きをぜーんぶ予測できてしまえそうなものだけど、このコロナ禍だからねー。まさか、こんなふうに世界経済がストップしてしまうなんて。。。

今日の聖書の言葉。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
詩編 23:2 新共同訳

何も欠けることがない、というんだから、これはもう、需要も供給も成立しない世界だよね(笑)

ふしぎなことに、聖書を見ると、神に叫び求め、訴え、嘆願するという、必死な祈りに満ちているんだけど、それは、人間の側に渇望があるからだ。つまり、需要サイドが、すっごいあるわけ。

ところが、新約聖書を見ると、神はイエス・キリストにおいて、神ご自身のぜんぶを人間に与えた、ということになっている。供給サイドは、神。

しかも、神が神そのものを、ぜーんぶ人間に与えるというのだから、これは、無限の供給だ。

神が、神のぜんぶを、人間に与える、という証拠聖句のひとつが、これ。

そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
エフェソの信徒への手紙 3:19 新共同訳

では、それが具体的に、どう実現するかというと。。。

主に結び付く者は主と一つの霊となるのです・・・
あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
コリントの信徒への手紙二 6:17, 19 新共同訳

イエス・キリストの十字架と復活を信じるとき、わたしたちに聖霊が注がれて、わたしたちの霊は、神の霊と合一し、ひとつとなる。ここにおいて、人間の側の需要が、無限の供給である神ご自身によって、完全に満たされてしまうことになるんだ。

この信仰に立ったら、もう、需要と供給のギャップが無いことになる。

なので、あの詩編の作者が言うように、「わたしには何も欠けることがない」という心境に、ほんとうになれるわけなんだ。

もし、みんながそういうふうに信じて、その結果、みんながみんな「わたしには何も欠けることがない」という心境になってしまったら。。。もはや計算する必要も、計画する必要も、ギャップを埋める必要も、なくなってしまうので、ヤバイ。。。

だから、スターリンもベリヤも毛沢東も、クリスチャンを殺しまくったんではないのかな。その結果、どうなったか。。。やっぱり彼らは、インプットするべき初期値を、知らなかったんだ。


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