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時代の潮目を動かしてるもの

時代の「潮目」が一瞬で変わるのを目撃させられることがあるよね。世界には何十億もの人たちが生活してて、いくらメディアやインターネットが発達したとはいえ、みんな違うものを見て、違うことを考えて、違う主張をしてるわけじゃない? にもかかわらず、どーっと雪崩を打つように、ある方向から、別の方向に、すべてが変わっていく、みたいな現象。。。

まあ、自然に考えれば、潮時が来たからそうなったんでしょ、ぐらいの呑気な説明になるんだけど。。。

一方で、「潮目」が変わる背後には、そうさせている謎の勢力がいるんだ、という世界観もあるよね。

聖書を読むと、聖書は唯一神についての啓示だから、当然、潮目を変えるのは「神」ということになるんだけど、よくよく注意して見ると、聖書には、潮目を変える神以外のファクターの存在が言及されているんだ。

今日の聖書の言葉。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
エフェソの信徒への手紙 6:12 新共同訳

時代の「潮目」を動かしているそれらのファクターを聖書は、位、主権、支配、権威、諸霊と呼んでる。

ここでは、それらをひっくるめて「諸権力」と呼ぶことにしよう。

諸権力は、神の支配に服しながら、人間世界を管理運営している。そういう意味では、諸権力は神側のエージェントなんだけど、たまに悪鬼化して、人間に災忌をもたらすことがある、ちょっとわかりにくい存在だ。

で、東西の神学者たちは、諸権力について次のような説明をしている。以下は自分が過去に集めたスクラップブックから引っ張ってきた引用だ。

長い引用になるので先に結論を言ってしまうと、これら諸権力を、ものの見事にぶった切って成敗したのが、イエス・キリストの十字架と復活だ、というふうに新約聖書は捉えている *¹。

どういうことかというと、諸権力は生きてる人間しか支配できない。ところが、キリストに結ばれた人間は、キリストと一緒に十字架につけられて死んだ、と神は一方的にみなして、「こいつは死んでる!」と宣言してくれるんだ *²。その結果、その人間は、生きているにもかかわらず、諸権力の支配からスルリと抜け出てしまえる *³。

諸権力の支配からの脱出。。。諸権力の構造=(xxxx) とした場合に、xxxxのところには、部族社会から封建主義からマルクス主義からグローバル資本主義まで、ありとあらゆる構造を代入することができる。で、人間はそれらの支配から脱出できるわけだから、これって、究極の脱構築・ポスト構造主義かもしれないねー。

「あなた方は、世にいながら、世のものではない」という聖書の言葉には、そういう含意があるんだと思う *⁴。

それでは、以下、長い引用となります。

1. パウロ神学における天使的諸力

オスカー・クルマンは、パウロ神学に見る後期ユダヤ教の天使論の影響について、その古典的名著『キリストと時』において、次のように論じている。(オスカー・クルマン、前田護郎訳『キリストと時』岩波書店、1954年、pp.194-197.)

後期ユダヤ教の天使論

天使に関する後期ユダヤ教の考え、中でも「諸民族の天使」についてのそれは、新約の確実な信仰の内容に数えいれなければならない。ユダヤ教の中で広く流布していた、諸民族支配の天使の信仰の重要性を、はじめて指摘したのは、マルティン・ディベリウス『パウロの信仰における諸霊の世界』(1909年)の功績である。ギュンター・デーン『天使と権力 ローマ書13:1−7の理解のための一つの寄与』(カール・バルト50回誕生記念、1936年)は、この指摘を取り上げて詳細に論じた。

すべての民族が天使によって統治されるというこの後期ユダヤ教の信仰は、多くの例証を持っているが、ことにダニエル書、イエス・シラク、エノク書にそれが見られ、そしてタルムードやミドラシュにおいてもまた指摘しうる。

この信仰にもとづくならば、どうして地上の人間界の国家権力が、そのような天使の勢力の領域に属するかが理解できる。これら天使の勢力は、キリストを十字架につけた国家当局者の背後に存在したのである。これが、本章のはじめのところでふれた「アルコンテス・トーン・アイオーノス・トゥートゥー」(このアイオーンの司たち)である。同様にコリント前書6章3節も、原始キリスト教の考えによれば、これら見えざる天使の勢力が地上の国家の背後にあることを証明する。なぜならば、この仮定にもとづいてはじめて、次のことが意味をもつからである。すなわちパウロは、彼が教会にあてて、キリスト信徒の間では、国家の裁判所による裁判沙汰を避けるようにと忠告したことに対する理由として、教会に属する者たちは、世の終わりに「天使」を裁くであろうという点を指摘するのである。

エクスーシアイの釈義

いわゆる「キリスト論的に、国家を基礎づけること」は、従ってその反対者たちから通常前提されるように、ローマ書13章1節の「エクスーシアイ」(諸権威)の解釈のみに依存するものでは決してない。それは、諸民族統治の天使に関する、極めて明らかな後期ユダヤ教的な考えにもとづく。これが原始キリスト教にとりいれられ、ここで、「キリストによる天使の諸勢力の征服」に付与される意義と関連して、極めて重要な役割を果たすのである。そのゆえに、この天使及び諸勢力の観念を、パウロ神学の末端的位置に置くことは正当ではない。

かの有名なローマ書13章1節以下の箇所は、天使の勢力と見るこの考えを支持するものを持っている。この考えに基づく時に、その部分全体がはじめて真に明らかとなり、そしてパウロの思想全体と一致することが見られるであろう。

かくてその連関をみれば、国家のことがいわれていることは、完全に明らかとなる。しかしこのことは、他の二つのパウロの箇所でも見出され、また後期ユダヤ教にとっても例証の多くあるその考えが、いまの場合にも存在していることを証明するにすぎない。すなわちそれは、現実の国家権力が、天使の勢力の執行機関と考えられていることである。世俗的ギリシャ語で、単数及び複数が(アルカイ〔政治〕との組み合わせにおいても)、この世の権力だけしか表さない事実は、ローマ書13章1節以下でも、この意味だけが考慮されうることの証明のひきあいに出されてはならない。世俗的なギリシャ語の世界は、天使の勢力についての後期ユダヤ教及び新約の考えを知らない。したがってその世界にはそれに応ずる「エクスーシアイ」の語の用法もまた無縁であることは、自明の理である。パウロにとっては、その「エクスーシアイ」が他では常に天使の勢力を意味するが、ここでも彼は、それを更に厳密に、国家権力の背後にひそむ見えざる天使の諸勢力として考えている。このことは多分、彼もよく知っていた、その語をこの世の歴史に用いるまさにその用法によって示唆されたのであり、彼はそれに後期ユダヤ教的─新約的用法を結びつけた。かくしてパウロにとっては、その用語の二重の意味が現われる。この意味はいまの場合に、ぴったりと事態に即する。それはまさに国家が、見えざる諸勢力の実行的機関であるからに他ならない。

2. 天使的諸力

天使的諸力の概念に関する新約聖書の用語、エクスーシア、アルコーン、デュナミス、スロノス、キュリオテースについて、ゲルハルト・キッテルの『新約聖書神学事典』は、次のように述べている。

エクスーシア

超自然的諸力を指す、新約聖書における特殊用法。「この世の支配者」と共に用いられることが多い。ヘレニズムやグノーシス主義には見られない用語であるが、『イザヤの昇天』、『12族長の教訓』、キリスト教グノーシス主義諸文献、黙示的使徒言行録において見られる。エクスーシアは、ユダヤ教の土壌において発展した概念を基礎としており、悪鬼とは区別されるが、この世の支配者とは曖昧不可分な、宇宙的諸力を指す。パウロは、ユダヤ教における「自然界を支配する諸力」の概念を、ヘレニズムにおける「宇宙を支配する諸力」の概念と合わせて使用している。かくて、神と人間との間にあって、人間の生活を支配する様々な諸力が存在していることになる。エクスーシアは、被造物としての性質を持ち、キリストにあって、キリストのために創造された(コロサイ1:15−16)。緊張関係が存在するものの、二元論ではない。エクスーシアは、人間をキリストから引き離すことが出来ない。

アルコーン

社会における「高官」を指す用語。ダニエル書10章では、諸国を代表し守護している天使的存在の意味で使用されている。新約聖書では、パリサイ派が<イエスの悪霊追い出しはベルゼブルによるものだ>と論難した文脈において、「悪鬼の王」の意味で用いられている(マタイ12:24)。しかし、アルコーンの力は打破されている(ヨハネ12:31)。アルコーンは、罪のないキリストに触れることすら出来ない(ヨハネ14:30)。アルコーンは、すでに裁かれている(ヨハネ16:11)。パウロは、アルコーンが非キリスト者の中に働いている、と言う(エペソ2:2)。この支配するアルコーンの力は、彼らが無知のゆえに、栄光の主キリストを十字架につけたために、失われることとなった(コリント前書2:8)

デュナミス

キリストの出来事は、悪鬼的諸力としてのデュナミスについて、明らかにしている。新約聖書は、悪鬼的諸力の存在を認めている。それらは、宇宙的諸力であると同時に、天使的諸力でもある。悪鬼的諸力は、キリストの復活によって打破され、キリストの再臨に際して、公然とさらしものにされることとなる。復活と再臨との間に、緊張状態が存在する。悪鬼的諸力は武装解除されたが、それは、信者が神から新しい命を受けて、神の支配の下に移されたからである(エペソ1:20−21、ローマ8:38−39)。それでもなお、悪鬼的諸力は戦っているが(黙示録13:2)、最終的には降伏する(1コリント15:24)。反キリストは、悪鬼的諸力と共に到来し、偽りを広めるが、キリストの再臨によって、ついに滅ぼされる(2テサロニケ2:9)。

スロノス

天使の階層の一つ。コロサイ1:16において、超自然的な諸力のひとつとして言及されている。その言及によると、天使的諸力の中の最高位階を指しているように思われる。

キュリオテース

「力」あるいは「権威」を指す用語。コロサイ1:16において、天使の階層のひとつを指す用語として使用されている。ユダ書8節では、偽教師が、その自由主義ゆえに<権威ある者をそしる>と言われているが、そこでは天使的諸力よりむしろ、神的な栄光(あるいは神御自身)を指していると考えられる(2ペテロ2:10参照)。

3. ストイケイア

ヘンドリクス・ベルコフは、パウロ神学の概念である「民族・文化・宗教・国家を支配するストイケイア」(宇宙の構成に関わる諸霊)について、『キリストと諸権力』において、次のように論考している。(ヘンドリクス・ベルコフ、藤本治祥訳『キリストと諸権力』日本基督教団出版局、1969年)

後見人である諸権力

パウロは、人間の生が一連の諸権力(位の霊、主権の霊、支配の霊、権威の霊)によって規制されているとし、時間(現在のもの・将来のもの)、空間(深いもの・高いもの)、生と死、政治と哲学、世論とユダヤ律法、敬虔と伝統、運命的な星の動きなどについて語り、キリストを離れた人間はこれらの諸権力に依存する以外にないことを明らかにした。諸権力は人間の命数を定め、人間の運命を導く。時代の要求、将来の不安、国家と社会の制約、生と死の限界、伝統と道徳の葛藤、これらはみなわれわれの「後見人」であり、人間の生活を結びつけて、世界を混乱から守る力である。p.20.

パウロの天使論の独自性

宗教史的背景にさかのぼって考えると、パウロが、ユダヤ的黙示文学の世界で考えられていたものとは全く異なった形の諸権力を考えていたことは明らかである。天使的諸力が地上の出来事を左右するという考え方は、黙示文学者たちにとっては自然観の一断面にすぎなかったが、パウロはその点に興味を持っていた。黙示文学がこの天使的諸力の影響をおもに自然の出来事(あるいは状態)の中に見たのに対し、パウロは、それを生命のあるもののごとく、その広さと深さにおいて本質を見抜き、特にそれを人間と結びつけて考えようとしたのである。p.22.

神・諸権力・人間

コロサイへの手紙1章17節に、「万物は彼(キリスト)にあって成り立っている」とある。動詞「スネステーケン」は、今日でいえば英語の「システム化」にあたり、パウロがそこで言おうとしていることは、創造のシステムとなっているのは、諸権力ではなくキリストである、ということである。教会のかしらであり初めの者であるキリスト(18節)に従うときに、あらゆるものがその固有の場、すなわち神の意図された場に置かれる。そのとき諸権力は、世界の意味を支える不可視的基盤として、創造の支柱の役目を果たす。だからパウロは、決して諸権力それ自体を邪悪なものと考えているのではない。それどころか、諸権力は神の愛と可視的な人間の経験との橋渡しをするものであり、生命をつなぎとめ、それを神の愛の中に維持し、神との交わりに固く結びつける助けとなる。それは神と人間との間を裂く障害物ではなく、結合のきずなである。神に仕えるための助けとして、道標として、諸権力はそれを実現する枠づけをする。p.29.

諸権力の世界維持機能

すでにわれわれは、堕罪後の世界においてすらも、諸権力は神によってたてられた機能の一面を持ち続けることを知った。それらは依然として創造のわくづけであり、被造世界を崩壊から守っている力である。諸権力は、世界を水没させる混沌の洪水をせきとめる堤防である。これがきわめて重要な役割であることは、パウロもよく理解している。彼がそれをガラテヤ人への手紙4章1節から11節でいみじくも表現していることは、われわれが「ストイケイア」(宇宙の構成に関わる諸霊)との関連においてすでに論じたところである。その箇所で彼は、彼の手紙の読者たちに、彼らがイエス・キリストのうちに生ける神を見いだすまでは、かつて世の諸権力の下に生きていたことを想起させ、その時彼らは「子どもであった」(3節)といっている。人間がキリストによって贖われると、諸権力の奴隷から解放されて神の子となり、神にのみ頼り、神にのみ従う者となる(4、5節)。しかし、それは、以前諸権力に従っていたことを絶対的に非難廃棄することを含んでいない。そのような従属は不可避的であったし、また確かに神の恵みのわざでもあった。人間はキリストを離れては「子ども」に過ぎず、自らの道すらも見いだしえない者である。もし自らを本能的に任せうる諸権力がないならば、人間の生は放棄分解されるであろう。というのは、神は世界を可視的なものと不可視的なもの、すなわち、人間と諸権力とを互いのために創造されたからである。神の保護によって、人間は「管理人や後見人の監督の下に」(贖いの)外側に立っていた。諸権力はわれわれに対して責任をとり、われわれの生命を確かな保護のもとに置き、神の世界維持が終わって、より完全な贖罪のわざに包含される時に備えて、それを守り導いてくれる。このように、神から離れた世界の中では、諸権力はきわめて積極的な機能を果たしている。それは人間を生かし続ける機能である。p.36

諸権力と民族・文化・宗教・国家

このような理解は、非キリスト教世界がそれによって今まで存在し現在も続いている宗教的社会構造を考えるとき、特に明確になってくる。ある諸力は人間に団結力を与え、社会的にも個人的にも生きる方向を示しその道を備える。原始民族における氏族・種族の役割や、数世紀にわたって中国人の生活と形式と内容を与えてきた祖先崇拝の役割がそのよい例であろう。また、日本の神道、インドのヒンズー的社会秩序、古代バビロニアにおける占星論的一致、ギリシア人にとって深い意味をもつポリスや都市国家およびローマの政治なども同様の役割を果たしたものとして指摘できよう。それだけでなく、現代の国家もまた「ストイケイア」(宇宙の構成に関わる諸霊)によって支配されていることは明らかである。聖書がこの状態を奴隷の状態として明瞭に指摘しても、それがなおも神の世界維持というあわれみの一部であり、キリストによる開放がないところにも、人間はなおも生命をつなぎとめうるのだ、ということを忘れてはならない。pp.36-37.

4. 義認と法

カール・バルトは、新約聖書に見る「キリストのしもべ・であり・かつ・悪鬼化し得る・国家権力」という概念について、ナチスに対する「告白教会」の戦いの中で行った講演「義認と法」において、次のように述べている。(カール・バルト「義認と法」『カール・バルト著作集6』 pp.204-209.)

近年になって初めて、『ローマ3:1及びテトス3:1でパウロが用い、またルカ福音書12:1においてもたまたま政治上の上司を現すために用いられている「権威」(エクスーシア)という言葉は、その他の場合にも新約聖書で複数形で現われるときには(あるいは、「すべての」(パサ)という言葉と共に単数形で現われるときには)いつも、聖書の世界像及び人間像の著しい特徴をなしている「天使的力の群れ」を意味している』という、昔から明白であった事情に、再び強い注意がむけられるようになった。この「権威」(エクスーシア)という言葉は、「支配」(アルカイ)、「支配者たち」(アルコンテス)、「権力」(デュナミス)、「王座」(スロノイ)、「権勢」(キュリステーテス)、「御使」(アンゲロイ)等々の言葉と同様のものであって、これらすべての言葉と概念の上から区別することは、恐らく困難であろう。(恐らくは、それは、それらの言葉と共に、「御使」という類概念にまとめられうるであろう。)すなわち、「権威」(エクスーシアイ)とは、造られた力でありながら、しかも不可見的・霊的・天的な力であって、他の被造物の中にありつつ、またその上にありつつ、或る独立性を持ち、このような独立性を持つことによって、また同時に或る卓越した価値・課題・機能を持ち、或る現実的な影響を及ぼすものである。ギュンター・デーンによってなされた指摘は、『新約聖書に述べられた教団が、国家・カイザル或いは王・国家の代表者たち・その働きのことを考えた場合、教団は、この国家において代表されそこに働いている天使的力の像を、眼前にしていたのである』という、すでに用語の上から生じて来る強い蓋然性を、さらに確実なものにする。われわれは、すでに、イエスを釈放するか或いは十字架につけるかというピラトに対してゆだねられた可能性を示すものとして、単数形で用いられた権威(エクスーシア)という概念のことを語った。また、われわれは、1コリント2:8では、「支配者たち」(アルコンテス)という概念によって、明らかに国家のことを考え、それと共に、天使的力を考えなければならないのであるが、これとても同様である。『このことによって明らかに示されているのは、国家というものが、どのようにローマ13章で述べられているような神の意志と定めによって定められた法の擁護者から、黙示録13章に述べられているような竜によって力を与えられ・皇帝礼拝を要求し・聖徒を攻め・神をけがし・全世界を征服する底なき所から上がる獣にまで、成りうるかということである』と主張されているのは正しい。天使的力は、まさに荒廃し・堕落し・腐敗し、かくてデーモン(悪鬼的)力となりうるのである。・・・・・・以上のようなすべてのことが、政治的な天使的力にも適用された場合、どういう結果になるのであろうか。それは、言うまでもなく、この力が─国家そのものが、根源的・究極的にイエス・キリストに属しているということである。すなわち、国家は、その相対的な実質・価値・機能・目標設立によって、イエス・キリストの人格と御業に─したがって彼において起こった罪人の義認に、奉仕しなければならないということである。もちろん、国家は、デーモン化(悪鬼化)されうる。教団がデーモン化した国家を相手にするということが、いつも起こりうるということ、また事実起こるということを、新約聖書は隠しはしない。この見地から見ても、明らかに国家のデーモン化(悪鬼化)ということは、人々が通常強調して言うように、不当な自主化ということであるよりも、むしろその正当な相対的な自主性が喪失されるということであり、それ本来の実質・価値・機能・目標設定を放棄するということである。そして、やがてこの放棄と共に、皇帝礼拝とか国家神話とかその他のものが、結果的な現象として起こって来るのである。・・・・・・国家が教会に対して真実な正しい自由を与え、『わたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごす』(1テモテ2:2)ことによっても、国家は真理に対して『局外中立的』(ニュートラル)なその存在を事実的に証明することができる。この事実を、われわれは、新約聖書の天使論の光に照らされる場合には、否定しえないのである。

5. 天使的諸力の悪鬼化

清水義樹は、「天使的諸力が悪鬼化する」という新約聖書の概念について、『教義学講座』において、次のように論考している。(清水義樹「創造論・付天使」『教義学講座1・教義学要綱』日本基督教団出版局、pp.201-202.)

見えない霊的存在である天使が、サタン化するということは、どういうことであるのか。この問題を念頭に置きながら、ローマ人への手紙13章1節以下の、上に立つ権威exusiaをとりあげたいと思う。これを天使的権力と考えるものと、それに反対するものとの両者が今日の神学界に存在している(前者がバルト、シュミット、デーン、クルマン。後者がキッテル、アルトハウス、ミヘルなどである)。キッテルは新約聖書で90回のうちほとんど80回までがexusiaは普通の権力を意味しているので、ローマ人への手紙のこの箇所も、世俗の国家権力の意味に解釈せねばならぬというのである。これに対してクルマンは、この言葉は単数使用のばあいは問題外として、複数使用、あるいはすべての権威というように単数の複数的意味の使用のばあいは、天使的権力に関係づけられているという。そしてパウロはローマ人への手紙のこの場所では、天使的権力を考えているといってよい。またパウロには世俗的意味でのexusiaを考えることを否定はしないが、彼の根本思想は天使的権力を考えているといわねばならない。地上の国家はこのような天使的権力の具現であり、機関である。パウロはコリント人への第一の手紙2章7−8節、6章3節でも、地上の国家支配のもとに見えない支配者を考えていることは明瞭であるといわれている。ローマ人への手紙のこのところでも、地上の国家支配者は神の僕であるということは、そのもとにある天使的権力が、神によって秩序づけられているからであると解釈せねばならない。
ところがこの同一の国家権力にキリスト者は、死をもって反対せねばならぬときがある。それはこの国家権力が、皇帝礼拝を強要するときである。ここに国家権力はサタン化するのである(黙示録13:1以下)。同一の国家権力が神の僕となるとともに、サタンとなるということは、その背後に天使的権力を考えるとき、よく理解できるといわれる。天使的権力がキリストの支配のもとにあるとき、その機関としての国家権力は、キリストに仕える。けれどもキリストの支配の外ではなく、支配のなかで、その支配から離れるとき、国家も自己目的化してサタン的になるのである。ここに終末的神の国にいたるまでの中間時代の特色があるといわねばならない。

註)
*1.  G.B.ケアード『支配と諸力─パウロ神学研究』オックスフォード大学出版部、1956年、pp.92-93.

十字架は、キリストの個人的勝利である。これにより、キリストは、天使的諸力の支配権を足下に置くに至った。キリストは、その肉の体を脱ぎ捨てることにより「もろもろの支配と権威の武装を解除し」(コロサイ2:15)、それらの諸力がキリストに対して用い得る唯一の武器を取り上げてしまった。しかし、十字架はまた、集団的勝利でもある。キリストが、罪深い人類と同一化して、へりくだったことにより、人類はキリストの義と勝利とに自らを同一化することが可能となった。
G.B.Caird, Principalities and Powers: A Study in Pauline Theology, Oxford University Press, 1956, pp.92-93.

*2.  Cf. ローマ 6:3-11
*3.  Cf. ガラテヤ 4:1-7, コロサイ 2:11-15
*4.  Cf. ヨハネ 17:14-16


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