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人はなぜ闘病記を書くのか

amazonで「闘病記」で検索すると大量の書籍が出てきます。

僕はこれまであまり読んだことがなかったですが、それだけ多くの闘病記が出版されているということは、自身の闘病について書いた人も沢山いるということです。

そして、そうした闘病記のほとんどは病から生還した人が書いたということです。
我いかに生還せり

残念ながら闘病の果てに生還出来なかった場合は、闘病記にはならないんじゃないだろうか。
本人が書いた遺稿を近親者が出版するにしてもあまりにも切ないし、
近親者が書くのであればもっと違うところに焦点を当てたものになるような気がします。
あくまでも個人の感想ですが。

さて、そんな闘病記、本当に沢山あります。
闘病記と一言でまとめても、闘病という感じではないものもありますし、病にかかった自分を淡々と見つめる、本人にとっては日常のエッセイと変わらないようなものも多くありそうです。

最近読んだものだと、うつ病に関するものがいくつかありました。
あずまひでおさんの『失踪日記』シリーズとか(あれはアル中が原因ですね)、
相原コージさんの『うつ病になったマンガが書描けなくなりました』シリーズとか。

そして、西加奈子さんの『くもをさがす』に代表されるようにがんとの闘病について書かれたものもとても多いような気がします。

早期発見すれば治る病気になってきたということでしょうか。
実際、僕の周りにも人間ドックなどでがんが見つかって手術をして臓器摘出して普通に生活に戻っている人が結構います。

人は元気な時は身体のことなんて気にはかけません。
立って、歩いて、食べて、笑って、怒って、それが普通だからです。

だけど、そんな風に普通に生活できていること、健康であることがどれだけ幸せなことなのか。
それを人は病になってからはじめて知ります。
そして、病を通して自分の身体のことについて気を向け、調べて、理解を深めます。

僕がそうでした。
これまで何十年と生きてきて大きな病は全く無縁だったのに、「たまには入院もいいかな」なんて呑気なことを言っていたのに、6年前と4年前に続けて手術をするために入院することになりました。

そうしてはじめて、どれだけ何事もなく普通に暮らせてる健康が大切なのか身に染みて分かりました。

そして、入院生活のその間は自分の病気のことにしか興味が向きません。
本を読んでも上の空、音楽を聞いても心に入ってきません。
そうなんです、人は病に倒れると闘病のことしか頭に浮かんで来ないのです。
生活すべてが病のこと、身体のことになります。
そうすると、その間に書く日記も病に関すること、自分の身体の調子についてになるのが必然なのです。

病が完治して、普通の生活に戻ってしばらくは、自分の健康について気を付けなければ、そんな風にしおらしく思いを改めることもありますが、喉元過ぎればなんたらで、しばらくするとすっかり忘れてまた元の生活に戻ってしまいます。
何事もなかったかのように。
そうして書き溜めた日記の切れ端を見つけて、
さてこれをどうしようか、この時の苦しい想いをこのまま忘れちゃいけないんじゃないか、
そんな風にして世に出ていくのではないかな、とそんな風に思います。

<了>

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