はじめにことばがあった
子どもたちの聖劇を観て
「はじめに言(ことば)があった」
この聖句をご存じの方も多いと思いますが、これは新約聖書にある有名な『ヨハネによる福音書』の一節です。12月17日(土)に行われた弊園のクリスマス礼拝の聖劇でも、年長児のSくんがこれに続く『ヨハネによる福音書』の言葉を立派に朗読していました。
Sくんだけでなく、聖劇を演じた子どもたちは、自分なりに自分の役を、精一杯演じていました。自分たちで役を決めた責任をもち、各自セリフや歌に乗せた「言葉」を観客に届けるためにはどうしたらよいのか……。
配役決めからクリスマス礼拝までの間(終わったいまもですが)、廊下や保育室のそこかしこから、聖劇の歌を合唱する声、セリフを高らかに語る声が聞こえてきました。
なので、いつも保育園の様子とは違う「言葉」であふれていた期間でした。子どもたちも保育者も、例年のこうした時間もまたクリスマスを待つ「アドベント」として、楽しんでいるのだと思います。
遊びを通して、子どもたちがこうした自発性を発揮する様は、まさに「保育」。やらされている様子は感じられず、心から楽しんでいる雰囲気が、廊下に面した一室で仕事をしている私にもよくわかりました。子どもたちがもつ台本は、きっと短時間でボロボロになっていたことでしょう。
自分たちの役割を軽やかに遊びに転換させるすべは、つい窮屈にいろいろ考えてしまう大人としては、見習いたいものです。
「はじめに言があった」ってどういう意味だろう
ところで「はじめに言があった」というのはどういう意味なのでしょうか。クリスチャンではない私は意識して考えることもありませんでしたが、聖劇を機会に考えてみました。というのも、現代は「言葉」の価値の乱高下が激しいとずっと思っていたからです。
聖書解釈としては天地創造の「光あれ」に由来して言で世界が作られたことを示していますし、そのあとで言⇒命⇒光という連想を文章展開でそこを補強しています。また、直後の「言は神と共にあった。言は神であった」からは、神の姿は見えなくても「言として」存在を示されたという意味で、やはり「言は神であった」のです。
私は預言者という名称から、単に神託を預かる人という考えていたのですが、ていねいに『ヨハネによる福音書』の冒頭を読んでみて、預言者という言葉の重みが確実に変わりました。「言は神」なのですから。同時に、ここに言葉の良さと怖さがあるようにも思います。
その認識をベースにしつつ、文字通りに「はじめに言があった」について考えてみましょう。
私たちはテレパシーを使えませんし、かといって言葉で考えの裏表すべてを伝えられるわけではありません。私も前職(編集者・ライター)時代に、自分のつたない原稿やページ表現に何度がっかりしたかわかりません(いっぽうで『ものすごい書き手』の筆力に何度もうなったものでした)。
それでも……言葉にすがるのが人間ですし、言葉で、文章で自分の思いが伝わる……と思ってしまうのも人間なのです(それで私もこうしてnoteで文章を書いています)。
だからこそ「はじめに言があった」には重い意味があります。
言葉の発信だけは気軽にできるようになった昨今。発した先への想像力の欠如から悲惨な状況もたくさん生まれています。だからこそ「はじめに言があった」を噛みしめる意味があるのではないでしょうか。
『おやときどきこども』とことば
この聖句について考えを深める手助けをしてくれたのが、鳥羽和久氏の『おやときどきこども』(2020年、ナナロク社)に出てきた一節でした。
鳥羽氏は、単なる進学塾ではない、子どもたちに徹底的に寄り添う学習塾の講師・教育者で、近刊の『君は君の人生の主役になれ』(ちくま書房)も話題になっています。
『おやときどきこども』には言葉でやりとりを重ねる、鳥羽氏、子ども(多くは思春期の)、保護者の姿がたくさん描かれています。「意志」や「主体性」「言葉」といったふだんはあまり疑わない事柄への疑義をはさみながらも、やはり言葉で面と向かって懸命にコミュニケーションを続ける様子が印象的です。
本書にはまさに「子どもと言葉」と題された章があり、コミュニケーションの難しさも率直につづられています。
日々子どもと保護者と向き合い、理解し合うことの困難さを抱えながらも、言葉に頼るしかない。その歯がゆさを優しい言葉で表現していて、読んだときにハッとしました。真剣に向き合えば向き合うほど、現場では「言葉の壁」に直面しているのだなと。その中で、「はじめに言があった」も引かれていました。
本章での鳥羽氏には、私たちの言葉は「借り物である」という前提があります。「はじめに言があった」を言葉の習得過程と置き換えれば、私たちは事前に言葉がある世界に生れ落ち、その中で経験的に母語を習得しているわけです。鳥羽氏が書いているとおり、「自分の言葉」の自明性を疑ってみるのは、子どもたちに向ける言葉を考え直すきっかけ、深い洞察の手助けになるかもしれません。
上記の引用のもう少し先の文章には、言葉の次にコミュニケーションで「心を開く」ことへの考察も書かれています。
私は「心を開く」ことについて、こんなふうに考えたことはなかったので、目からウロコと同時に、とても納得しました。また、下記のように文章が締めくくられていて、信頼関係を築く大切さをこんな形で文章にできるのか……と、その思考の深度に感服しました。
子どもたちが心を開き、身をゆだねてくれる存在である保育者(個人的には親として)として、言葉と心の関係を、いまいちど自分自身に問い直さなければならない、そう考えさせてくれる文章です。
もう一か所、とくに本書の中で心に残る一節があり、その引用で本原稿を終わります。クリスチャン家庭で育ち、思春期まで毎週の礼拝を欠かさなかったという鳥羽氏だからこその表現に思えてなりません(だからこそ『ヨハネ』も違和感なく登場するのでしょう)。
子どもたちが教えてくれることは、とてつもなく多い。まこと保育園の保育者も、日々そう体感しながら保育をしていると思います。
(文・まこと保育園 渡邉)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?