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「表現力」から「読解力」へ(あるいは他者理解に関する一考察)

 「現代の日本の子どもは読解力が低下している」

 よく取り沙汰される「国語」における言説の一つである。OECDのPISAをエビデンスとして取り上げられて以降、この「読解力」低下言説は何らかの学力調査がなされるたび、学校教育批判として挙げられてきた。昨年も新聞の一面に大々的に取り上げられるなど、その過熱ぶりには目を見張るものがある。

 実際、僕も国語の教員としてそのことは如実に肌で感じている。確かに自分が年を重ねるごとに子どもの語彙力は低下しているように思えるし、少し形を変えただけでも試験問題に歯が立たなくなってしまう生徒もたくさんいる。科学的データからも、教員の肌感覚としても、それがどうも正しいことなのだろうと思っていた。

 でも少し立ち止まって考えてみると、それはどうも本質的な問題ではないんじゃあないか、とも思える。きっと本質的な問題は他にあって、それが表面化しているのが「読解力」低下言説なんじゃないかと。

 そもそも「読解力」の定義は何だろう。字義から考えれば「読み、解釈する能力」である。だが、ある予備校では「読む、解く能力」と教えているようだし、一般に「読解力がないなあ」などと言われる場面では、「要点を抜き出す能力」「話の全体を把握する能力」であると思う。現在では学習参考書だけでなく新書やビジネス書の棚にも「読解力」や「読書」という言葉が散見される。

 結局のところ、「読解力」という言葉自体多義的なもので、すべての人が同じ文脈で使っていることは珍しいんじゃあないだろうか。そうなれば、いかに「読解力」の議論をしたところで議論は平行線のまま。何も建設的な結論は生まれえないんじゃないだろうか。

 僕は決してここで「読解力」とはこうだ!なんていう銀の弾丸を打ち出そうとしているのではない。ただ、「読解力」とは「他者理解」の一つの方法にすぎず、この「他者理解」のあり方こそが時代と共に変化しているんじゃないか、と考えているだけなのだ。

 僕は本来「他者理解」とは、「相手のすべてのコンテクストを理解する」ことだと思っている。注意深く相手の言動・行動を観察し、どんな通時的・共時的文脈の下、それがなされているかを意味づけること。現実的には非常に困難を極めるし、相手だって知られたくないことだってあるだろう。けれどもその部分をできる限り想像し、少しでも相手を知ろうとする姿勢を持つことが人間社会で生きていくうえで重要なんじゃないか、と思うのだ。

 でも、SNSの発達など時代の変化の中で、コミュニケーションのあり方が変わった(何でもかんでもSNSのせいにすることはあまり好きではないけれど)。それと共に「他者理解」というものの在り方もきっと変わってしまった。「他者理解」よりも「共感」が重要視される社会。それに伴って「共感」できない相手との溝が深まっていく。「共感」できない他者を排除し、狭いコミュニティの中で安心を買う。もちろんそれは自分の居場所を見つけやすくなったことでもあるのだろうけれど、「LINEいじめ」という新たないじめの形態はこの他者との断絶のカタチにその端を発しているんじゃあないだろうか。そんな風に思うのだ。

 僕は国語の教員で、演習形式の授業のあと生徒の記述答案をすべて回収して採点するようにしている。論理的な解答になっているかの確認はもちろんだけれど、最近特に気にしているのは「他者を意識して書かれているか」ということである。例えば現代文の記述解答であれば「筆者・作者」の伝えたいこと(およびその論理化作業)を帰納・保存し、「出題者」に伝わる形でそれらを還元していくことがその主たる目的になるわけだが、この「伝える」ということが彼らには至難の業であるらしい。ポイントとなる部分がすべて書かれているにもかかわらず、何だか文になっていない、文章として成り立っていない、ということがある。彼らにそれを返却し、近くにいる生徒同士でそれを添削させると「伝わらない」と言う。でもそういった彼の解答も「伝わらない」と言われる。

 僕は思う。彼らはきっと「読め」ていないのではないのだ。確かに語彙力は不足しているかもしれないが、それでも前後の文脈を意識して理解しようとしているのだ。だが、それを「表現」する手段が余りにも少ない。そうした「表現」の機会が彼らの文化には乏しいのだ。

 「表現する」という行為は、自分が「筆者・作者」になって思考を巡らせ、それを論理化・言語化する行為であると思う(それは音楽や映像、絵画だって同じだろう)。その機会が現代社会から相当量奪われてしまっている。子どもたちはそうした社会でしか育っていないのだからそれが「当たり前」なのだ。それを打破しようとしても、どうしたって生徒には当事者意識が生まれえない。どうしても「常識」に縛られる。

 だから必要なのはきっと「表現することが当たり前の文化を教室や学校の中に創り出すこと」なんだと思う。表現して、伝えようとして、伝わらなくて、傷ついて。でも、それでも伝え合おうとして、伝わって、うれしくて。そういったことの繰り返し。傷つくことだって勉強だ。それを見守って、相談に乗って、一緒にどうしたらいいか考える。それも教員の一つの在り方だと思う。クレームは怖いけど。

 そういう表現しあうことを当たり前にして、伝え合う力・分かり合う力を身につけて。それから難解な文章を読んだり、高尚な講演を聞いたりすればいい。まずは「他者理解」への道標となる「表現」の姿勢を身につけること。もちろんそれは時代とともに変化していくことだとは思うのだけれど、「他者理解」の根本的姿勢は変わらない。まずは相互の「他者理解」へつながる「表現力」を身につけて、難解な文章を扱う「読解力」はそのあとでいい。そんな風に思うのだ。

 

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