見出し画像

墓碑は語る(上)スイマーよ!!

わたしは東京都荒川区に住んでいる。コロナ禍に見舞われたここ最近は、運動不足をすこしでも解消しようと、自宅からほど近い「谷中墓地」(やなか・ぼち)を毎日のように散歩している。

ウィキペディアによると、谷中墓地の大きさは東京ドーム2.2個分。およそ7000基の墓がある都内でも有数の墓地だ。有名どころでは徳川慶喜、渋沢栄一、鳩山一郎の墓がある。

ここはいろいろな想像力をかき立ててくれる。墓には葬られた方の亡くなった日付が彫ってある。平成、昭和、大正、明治だけでなく、享保や寛政など江戸時代の墓もあり、ふと故人の在りし日の姿を思い浮かべてみたりする。いまは墓碑のなかでしかない先人の人生が、なにかの拍子に立体的に見えてくることがある。これがおもしろい。

きょうから上下に分けて、谷中墓地で拾った小ネタを連載していく。

海軍の軍人

キリスト教徒の墓地群の一角に、こんな文字が彫ってある墓があった。

「海軍中尉 ステバノ直敬 昭和十八年十一月三十日戦死」

墓の正面には「鶴野家の墓」とある。

ステバノとはキリスト教の洗礼名。ここでわかるのは、「鶴野直敬」という海軍の軍人が第二次世界大戦で戦死したということだ。

帰宅してから、パソコンで調べてみた。

直敬さんが、どの船に乗っていたかなど戦死した状況はわからなかった。

でもひとつだけ、かれの人柄を想像させる手がかりがあった。

水泳選手

日本水上陸技連盟が昭和13年に発行した機関誌がそれだ。偶然にも機関誌のPDFがネット上におちていた。スクロールしていくと、こんな箇所にいきついた。

第17回関東学生水上競技大会の200メートル自由形予選のDチームの2位

鶴野直敬(商船)2:43:6

という一文だ。

見つけたとき、思わず「あっ」と叫んでしまった。「君はそこにいたのか」。率直に驚いた。

商船とは東京・越中島にあった高等商船学校(現・東京海洋大学)のことだろう。海軍が所管する船乗りの養成所として、日本でも数少ない学校だった。

直敬青年

ウィキペディアによると、当時の200メートル自由形の日本記録は2分9秒6だったから、直敬さんがとりたてて泳ぎが達者だったわけではない。

でも想像するに、船に憧れ、海が好きで、日に焼けた、短髪の、爽やかな青年だったのではないか。いかにも海軍の白い軍服が似合いそうだ。

会ったはずのない直敬青年の屈託のない笑顔が脳裏に浮かんで、しばらくの間、心地よい春の風のような気分になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?