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「ニュルンベルク裁判」

過去記事です。2015年に台湾にいる時に書いたもの

昨夜は「ニュルンベルク裁判」を観た。毎回、夜観た後は頭の中がぐるぐるで寝付けない。観た映画が、音声、英文、字幕 中文ともなると更に頭の中はぐるぐるする。普段使わない脳の部分を使っている気がしてボケ防止になるかななどと考えたりもするのだけど、、、。

この映画は裁判劇。被告はヒットラーとかでなく、ナチスの中枢の人でもなく、その当時の裁判官4名 法に従い、沢山の人を収容所に送ったり死刑にしたりという判決をだしていた裁判官。この裁判の中で収容所の記録映画が流される、それは人間を人間とも思わぬ残酷な惨状が流れるのだけど、この時の法廷にいる人々のそれを観ている表情のカットが秀逸である。 

そして、この映画の中で、ドイツの国民は何が行われているか知らなかったのだ。収容所でどんなことが行われていたのか、国家が巧妙に知らせないようにしていたのだ。だから 忘れなくちゃいけないヒットラーの亡霊を (多分こういう事をいった)また、被告の裁判官の一人も知らなかった、いや,知りたくなかったのだ。と 
で、この映画を観た後いろいろ話をしたのだけど(観た人たちで) 
「知らないことは罪なのか?」という事。 
みなさん どう思いますか? 

これは昔のドイツの話しでなく、今の日本にも同じことがいえるのではないか。と ふつふつと思うのです。 
ナチスは確かに巧妙に国民を誘導し洗脳したとは思うのですが、私は、国民がある意味 ナチスやヒットラーを大きな怪物にしたのではないかと思っています。それは先の戦争の時の日本も同じではなかったのか、とも思うのです。日本が空襲やなんやで実際に国民に危険が及ぶ以前に、中国大陸で大勝!!ばんざーい。
 南方、◯◯を陥落 ばんざーい 
と日本の国民は熱狂し自らすすんでいった側面はあるのではないか、それは、今の、福島 復興ばんざーい。食べて応援ばんざーいとかさなるし、本質的に人間はそういう危ういものを持っていると思う。 
ドイツ国民が この時の不景気や貧困やいろんないいことがない中で、ヒットラーを救いの神のようにして支持した人。

特になにも考えないでその流れにのった人も含め いいことは知りたいけど、怖いことや嫌なことは知りたくない。
知ろうとしない というのではなかったのだろうか。 
戦争法案しかり放射能汚染しかり、知ったら怖いし、めんどくさいし、暗い気分になるからそういうNEWSは見ないようにしている。
という人たちが結構この世の中には多数いる。戦争に巻き込まれるのは嫌だけど、自分一人が考えた所で何していいかわからないし、どうにもできなさそう、なので 普段の生活を私は淡々とこなすわ。
放射能汚染そんな事考えていたらこどもの心にも悪影響だし親が不安になるとこどもに良くないし。 
というのもよく聞く。 
なのでそういうことに関連した文章やなんかは完全スルー(私のタイムラインなんかはその類ね)すればすむことだし。という人も多いだろう。

なんとなく自分の都合のいいところを着地点にしているかんじが私はする。 確かに親が不安になるとこどもに影響する。でもね、不安にならないといけない時に、知ろうとしないと後で後悔しても取り返しがつかない事もあるのよ。 

知らないことは罪なのか? 
知らないことは罪だけど知ろうとしないことはもっと罪深いという言葉を何処かで読んだ。 

本当に自分の幸せや自分の大切な存在を守りたいなら、知ろうとしなければ守れないと私は思っている。

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