SNSに思い出を残す重要性
また、新幹線の中で酔っ払ってる女のひとりごと。(結構腹黒い事言います。ご注意下さいませ)
わたしは、彼氏がいる・いないに関わらず、リア充満載の投稿ばかりする人は、こっそりと非表示にしている。(Facebookで一人だけだけど)
私が非表示にしているMさんは、私のリア友であるが、好きでも嫌いでもない小中時代の同級生。ただMさんから数年前、フレンドのリクエストがありなんとなく承認してなんとなく繋がって現在にいたる。
MさんのFacebook上での投稿は、常に恋人(現在は新婚のため旦那さん)の事ばかり。
幸せ〜♡
ああ幸せ〜♡
なんて幸せなの〜♡
と、言葉には出さないが写真から伝わるリア充臭がぷんぷん。
それも毎日のように繰り広げられるMさんの幸せ舞台。
一方私は・・・
当時ぼっちでエアセッ◯スばかりしていた。
Facebookを開くたびにMさんの幸せ舞台が真っ先にとびこむ。
次第に
テメエの幸せなんてどーでもええわ! もう見たくねーよぉぉぉ!
(ごめん、Mさん)
と、心の中で発狂してMさんをブロックまでいかなくても、投稿を全て非表示にした。
2016年12月現在、サトル君という彼氏がいる私。エアセッ◯スばかりしていたぼっちだった頃の私はもういない。
久しぶりに、わざわざMさんのタイムラインに遊びにいった。
今の私は彼氏もいるし、自分自身がMさんみたいにリア充満載の投稿をFacebookに限らずTwitterやnoteなどで時々している。今なら余裕の笑みを浮かべてMさんの投稿を読めるかもしれない。しかし・・・
うん。やっぱり非表示のままでいいや。
新婚になり、さらに幸せモード全開度アップのMさんの投稿。
やはり、人間というのは勝手な生き物で自分も同じようなことをしていても他人がすると受け入れられないことがあるのだ。
(ごめん、Mさん。それでも、Mさんが幸せなのは本当は嬉しいよ。本音)
というようなSNSにまつわる複雑な事があったのだが、今日SNSに関する考え方が180度変わった出来事があった。
一泊二日で関西に仕事で来ていた私だが、空いている時間に親友と姉と一緒に今日ランチをした。
その時だ。
「そういえばさ、数年前この近くのイタリアンレストランで◯◯ちゃん(親友)と一緒に食べたよね〜」
私がふと言うと、親友はきょとんとした顔で
「えっ、そうだっけ」
と言った。
「ほら、ピザとか食べたやん。〜とか〜とか頼んでさー」
私が必死に説明しても、?マークが表情に浮き出ている親友。
私の中では大切な思い出なのに、親友は全く覚えていなかった。
しかし、FacebookというSNSはそれを記憶していた。
「あったあった、ほら」
私がFacebook上でのかつての自分の投稿(そのレストランに行った時の)を見せるとようやくうろ覚えながら
「あっ、行った行った! 懐かしい! ◯◯通りにある店だね!」
と徐々に思い出してくれた。そして親友が一言。
「まこちゃんがFacebookで投稿して残してくれた事に感謝やわ〜。私、よく忘れるから、他の友達でも同じことあってさ」
・・・SNSすごいな。
私は、多分当時軽い気持ちで投稿したのに、こうやって時を経ても形に思い出が残るSNS。
私は悟った。Facebookで私が非表示にしているMさんこそ、SNSの素晴らしい使い方を熟知しているマスターなのではないだろうか。
例え第三者の私がMさんを非表示にしてようが、Mさんはその時その瞬間の幸せをFacebook上で形に残す。
幸せな感情に限らず、怒りや悲しみもだ。
時々Facebookを開くと「三年前の今日の投稿です」みたいな感じで過去に投稿したものがあがってくる。
その度、かつて自分が投稿したにも関わらずこれまでその思い出を忘れていたことに気がつく。
あの頃は、私こんなちっぽけなことで悩んでたんやな。今なんかそんなことすら一ミリも忘れてたわ、わっはっは!
とか
ああ、この時私この場所いたな。今はこのレストラン確か閉店したっけ。いい店やったのにさみしいな・・・
とかSNSがタイムスリップさせてくれるのた。
他人に投稿がうざいとか面白いとか思われる事をいちいち気にするより「この瞬間の気持ち」や「大切な思い出」を残す方がいいのかもしれない。
もちろん誰かを不快にさせるような悪口などは論外だが。
SNS、今まで長い間付き合ってきたけど、これからの私とSNSの付き合い方はちょっと変わるかもしれない。「いいね」の数よりいつか振り返りたいと思えるふとした瞬間の思い出を。
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