『The Bazaar of Heracleides』(ネストリオス)シリア語翻訳者序文

http://www.tertullian.org/fathers/nestorius_bazaar_1_book1_part1.htm

より。英訳からの重訳。

以下の仏訳を参考にしている。
http://archive.org/stream/lelivredheraclid00nestuoft#page/4/mode/2up


ネストリオスはアンティオケア学派の神学者であるモプスエスティアのテオドロスに師事したと考えられ、アンティオケアで司祭・修道士として活躍後、AD 428にコンスタンティノープル総主教に任じられている。聖母マリアの呼称問題などを巡ってアレクサンドリアのキュリロスと鋭く対立し、AD 431のエフェソス公会議において異端宣告され、エジプトに幽閉された。『The Bazaar of Heracleides』はネストリオスの没年の直前、AD 450頃の著作と考えられている。

エフェソス公会議ののちアンティオケアの教会の東西分裂は決定的となり、ネストリオスに立場の近い東シリア教会はその拠点を東方、ペルシア地域に移していくことになる。これらの教会は西方教会からはネストリウス派と呼ばれ、中国の景教、インドのシロ・マラバール教会、アッシリア東方教会、カルデア帰一教会などに繋がる流れとなっている。

ネストリオスの著作は、エフェソス派により焚書が行われたためほとんどが失われている。このThe Bazaar of Heracleidesは原文(ギリシア語)は失われており、シリア語で現存している。

英訳で"Bazaar"と訳される"Tegourta"は、ギリシア語で「市場bazaar」と「論考treatise」を意味する"Pragmata"を前者の意味で訳した語であったと考えられる。

著作のうちでネストリオスの対話相手として登場する、「ソフォロニオス」という人物の実在性は不明であるが、おそらく仮想的に創出されたキャラクターであると思われている。

[]内は邦訳者による注。
. . .は欠けている部分。


:::::以下訳文:::::

シリア語翻訳者による序文


. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 使徒的。彼は[よく]知られ、以下の諸々の働きにおいて有名であった。すなわち . . . . あなたの熱心さは . . . . そしてあなたが以下に満ちていることにおいて、すなわち . . . . すなわち先立つ諸王の。それであなたは東から西まで長旅の働きに乗り出した。それは諸々の魂に光を与えるためである。それら[の魂]は、エジプト人の誤謬の闇へと陥れられており、アポリナリオスの冒涜の煙に没入していた。しかし人々は光よりも闇を愛した。彼らの諸々の精神の目が個人的な偏見によって[曇らされた]からである。 . . . . あなたの自尊心のために . . . . 闇のみ . . . . それを理解した。しかし反対に、.... だけれども彼らは老いた。彼らは納得させられなかった。彼らは誤謬の有罪判決をなされ、曝された。私は取るに足らないが、あなた方の祈りの力へのこの固い確信において、この書をギリシア語からシリア語へと翻訳するよう進んだ。だが少なくとも、生ける神の助けの希望が私の舌の上に置かれ、また私の諸々の考えにおいて確固とされているので、それゆえ私はこの書の目的がそこで明らかとされるようなこれらの八つの章を構成するように進んだ。


一、この書の目的に関して。
それで、著者によってこの著作のために提示されていた目的は以下である。多くの者たちが、軽率にも、群衆と、財産欲によって、吟味もなく偏見のぬかるみに落ちてしまった。それは憎悪と、人々への愛着のゆえである。そこから . . . . でない . . . . 彼らはかの預言者によって書かれたあの災いへと糾弾された。「災いがある。悪しきを善きと呼ぶ者たちに。」 [イザヤ5:20] 私の主、祝福されたネストリオスは / この書を、この躓きの石について労苦し、不敬虔の深みに陥っている諸々の魂を癒す薬となるためにこの書を書いた。というのも、真実において語れば、聖なる教会のキリスト者の体に悪魔が導入した分裂は大きかったのである。それは、できることなら、選ばれた者をさえ騙す[マタイ24:24]ためのものであり、この理由のためにこの薬が、彼らの精神の病の矯正と癒しとして必然的に要請されていた。これが本書の目的である。

二、その有益性に関して。私は、本文の前に、この書の霊的有益性が[その]目的から読者に明らかにされたと思う。無罪を有罪とし有罪を無罪と[する]ような傷害を為す者たちに臨む刑罰と合致して、[本書]は確かに諸々の魂の目に、光を与える。それは神性と人性に関する真実により卓越した理論である、かのキリスト者の経綸に関して教えることによる。というのもこれを通して我々は神的本性と経綸についての冒涜から遠ざけられ、彼の多重の憐れみを通して知識へと近づけられるのである。しかしこの我々を救援する書から我々が得る偉大な助力に関しての我々の談話が長引きすぎないために、.... 彼が諸々のとげを消し去ることの証明を少数の言葉で述べよう .... そして彼らのうちで種が芽吹く原因となる。

三、.....合一の様式に関して、多くが書かれてきたが、[それについて書かれた]うちの一つでさえ、この探求において明白にし、全て真実において確立したものはない。というのも、彼らは多くの区別を為すことを喜んできたし、吟味もなく[複数の本性を]あえて混合しようとする他の者たちもいるのである。しかしこの祝福された[ネストリオス]は勇敢にその正しい知識を我らに伝えた。

四、その表題の由来について。これは確かにヘラクレイデスの市場[Bazaar of Heracleides]と呼ばれる。これについては、それが霊的知識の市場となっていることは明白である。しかしヘラクレイデスとは誰のことかについては明白ではない。以下がその解明として適切である。読者たちよ、はっきりと言うならば、ヘラクレイデスは彼の指導力のために名誉を与えられ、彼の知識のため高く評価されていた人物であり、彼はダマスカスの近郊に住んでいた。さてこの人物は、これらのことにおける彼の優越性の結果として、陛下の前にも、彼の諸々の言葉の誠実さと正義において有名であった。この者は、真実から遠ざけようとする全ての情熱[をもつ者]に対して優越していたので、あらゆることを不公正なく為した。著者には、この人物の名の表題をこの書に題するのが[良いと]思われた。そうでなければ、彼自身の名のおかげで、つまりそれを多くの者たちが嫌悪していたので、彼らは読もうとせず、真理に向き直されることもないのである。----彼が彼[自身]と不敬虔なるキリル[キュリロス]の間の裁定として置き、彼ら自身について語り、護っている[本を]。しかしこの書はそれにもかかわらず、. . . . . . . . . .

五、 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 経綸についてのそれ、また信仰に関する研究の真理についてのそれとして。そして第四[の種の文書]は歴史についてである。しかしこの書は第三段階目に位置付けられ、信仰に関する諸々の章節についてのそれであり、かの聖人によって成された二つの書の後に読まれるべきものである。つまり私が言っているのはTheopaschitesとTragoediaのことである。これらは、会議を持ちたいために彼を非難した者たちに対する弁護として彼によって執筆されたものである。

六、これをいくつの部分に分割するかについて。さて第一に彼は一つの論説を執筆し、そこで教会に対抗した全ての諸々の異端について、そして信仰に関して存在した三百十八の派閥について語っている。それらのうちの最も大きな評判を得た者たちに対して勇敢に論述している。そして第二部で彼はキリルに立ち向かって、[他のあらゆることより]前にキュリロスの諸裁定と告発を取り扱う調査を繰り広げている。そして第三は彼自身の弁護と彼らの諸々の書簡の対照を含む。そしてこれで彼は第一巻を終えている。一方で第二巻を彼は二つの部分に分割している。[まず]彼が破門宣告される理由となった諸々の事柄への非難についての弁護と論駁。第二[部]において彼が破門宣告された時から彼の生涯の終わりまで[起こったことを詳述している]。

七、この書の文学形式に関して。この書の文学形式は .... そして諸々の推量を描いている . . . .

八、何のもとで . . . さてそのほとんどの部分についてそれは理論的である。なぜなら我らの主キリストを扱う経綸の完全な知識のをそれは我々に教えているからである。それで、これらの[諸言]で我々の説明を止めよう。/ そしてこの書の本体へと近づこう。我々によって書かれたものに偶然出会った者たちが我らを粗探しをする者として咎めることの無いよう要請する。もしひょっとして我々の論説の構成に[諸々の欠点が]あったならば、彼らは進んだ意志を示して、我々のうちの欠陥を訂正してほしい。しかし我々について反感を抱くならば、我々にとってこの病と共に働いていない者たちの祈りは十分なものである。前者の方は彼ら自身の諸々の情勢において繁栄するだろう。彼らは我々が全く新たな発明を成していないということを知っているのである。編集者は咎められるところがない。

[ここに 1章から93章の表題がある。本文においてイタリック体で繰り返されるので欠落させた]

続く論説において[与えられる]章節の諸々の表題を終える。そしてヤハに栄光[あれ]! アーメン。

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