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【障害がある】からこそ努力するんだ

こんにちは!まこです。

今日は前回の「障害が僕に与えたもの」の続きを書いていこうと思います。
(よければ以下リンクからご一読ください)

今回はどちらかと言うと、障害があるがゆえの「宿命」というか、自分に課せられた「義務」のような話になりそうです(少なくとも僕はそう捉えています)。

1.障害があるからこそ努力が必要

上の記事で繰り返し書いたようにとにかく負けず嫌いだった僕は、自分ができることに対しては何事においてもわりかし真面目に取り組んできました。

そうして歳を重ねていくうちに、僕は何かに取り組むたびに「障害があるのに努力するってえらいねぇ」と言われるようになりました。

・・・

みなさんはどのようにお考えになるでしょうか。
「障害があるのに努力するって凄い」と思いますか?

僕にとってはむしろ逆なんです。
「障害があるのに努力する」
のではなく、
「障害があるから努力する」
を実践してきたんです。

だって、努力しないと人に勝てないから。
生きていくことがむしろ大変になるから。
努力することは、僕が生きていく上で「当たり前」のことなんです。
それ以上でも以下でもないことなんです。

2.僕は尊敬された方が生きやすい

僕はこの身体である以上、俗に「健常者」と言われる方に比べると「できること」はお世辞にも多いとは言えないと思います。

でもだからこそ、「できること」の範囲内では誰にも負けたくない、負けちゃいけないとの思いで生きてきました。

そしてそれは、ただ単に「自分がどれだけ頑張ったか」ではなく、どれだけ「目に見える形(=結果)としてみんなに示せるか」が重要だと考えていました。

「自己完結」するだけではだめだったんです。

ただでさえ「腕がないんだから何もできないだろう」と思われがちなうえに、たとえどれだけ努力しても、形として相手に示せなければ「やっぱりあいつは何もできない」となってしまう。

相手が僕をどう捉えているか。
「目は口程に物を言う」とはよく言ったもので、本当にその通りなんです。
相手の目を見れば一発でわかる。
そういう人たちを見返したかったんですね。

「〇〇では誰にも勝てないしそもそも何もできないけど、△△だったらお前らには絶対負けん」
という分野がとにかくほしかった。

要するに見栄っ張りなんですよね。
ただの負けず嫌いなだけではなくて。笑

でも
「人には尊敬してもらえた方が生きやすい」
というのは子どもの時から感じていたことでした(今でもそれは事実だと思います)。

というのもあって
「何とか尊敬されるように頑張らねば」
といった思いが人一倍あったんです。

そしてそれは、目に見える形で人に示すと得られやすい。

だからこそ、「できること」の目標は常に一番、あるいは「自分にしかできない形で成し遂げる」ことだったんです。

まぁ「だった」という過去形ではなく今でもこの想いは変わらないんですけれども。

3.ちょっと自慢させて

いきなりですが、ここでちょっと自慢させてもらおうかな!笑

と言うのも、「努力努力」と言うのは簡単です。
先ほどから書いているように「人に見える形」になっていなければ「努力」という言葉の説得力は欠けてしまうので、うざいのは承知ですが書かせてもらいます。

以下、僕が学生時代に「示してきた」ことの一例です。

◆書道作品が評価され(作品のみ)中国へ渡る(小学生)
◆別の書道作品が今でも小学校の校長室に飾られている(小学生~現在)
◆地域の将棋クラブで優勝(小学生)
◆絵画作品が評価され市役所に掲示される(小学生・中学生)
◆英語の暗唱大会、市内で優勝(中学生)
◆「もう十分」と感じて勉強をやめた3年春まで成績は常に学年1位(高校生)※その後大阪の国公立大に進学
◆ちなみに数学が学年2位で、それ以外は全科目1位(高校生)
◆評定平均は5(オール5)(高校生)
◆読書感想文コンクール大阪府金賞(高校生)
◆左腕一本で倒立(高校生)
◆反復横跳び20秒間で84回(別に書くことではないか笑)(高校生)
◆大学に協力してもらい、普通自動車免許取得(大学生)
◆学内に障害学生支援団体設立、大学から表彰される(大学生)

みなさんの鼻につくのは百も承知で書きました。

でも改めて振り返ってみるとどれも大したことなくて恥ずかしい…。
(ちなみに反復横跳びに関しては、僕以上の数字をこれまで一度も聞いたことないので、実は一番の自慢項目です。笑)

でも、「何もできない」と思われないために、また「自分自身の存在意義」を示すために結果として残してきた事柄の抜粋です。

現に今も
「みんなが思ってるほど何もできないわけじゃないし、できることは勉強でもスポーツでもそれ以外でもそれなりにできるんやで!」
ということを証明したくて書いてます。

これくらいしないと、なかなかわかってもらえないんです。

別に「わかってほしい!」とか「凄いと思ってほしい!」というわけではないんです、これは強がりでも何でもなく。

それよりも「自分のことを深く知らないのに、何もかもを見た目で判断しないでほしい」からこそつい主張したくなるんですよね。。。

4.努力は弱さを隠す手段

ここまで、僕にとっては人に形として、結果として示せてこその努力だと書いてきましたが、結局のところ人に「何もできない」と思われるのを極度に恐れているんですよね。

そう思われるとやっぱり「生きづらい」と感じてしまうからかなぁ。
あるいは「社会的弱者」と思われるのが嫌だからなのかなぁ。

諸々理由は考えられますが、複雑すぎて自分でもよくわからない点の一つなんですよね。笑

ただそんな中でも言えることは、僕にとっての「努力」とは「生きていくために必要不可欠なもの」というだけではなくて、「自分の弱さを隠すための手段の一つ」でもあるということです。

僕が強いから努力するというわけでは決してありません。

強さと弱さという二つの要素が入り混じったものが「僕にとっての努力」であり、そして僕という人間なのだと思います。

5.障害から得られたもの

こうして考えると、障害は僕に少なからず「努力する才能」だけは与えてくれたみたいです。

これはまた後日、別の記事で書きたいと思いますが、僕と同じように障害があっても努力しようとしない人もたくさんいます。
いや、そもそも努力できない人、努力のしようがない人だっています。

そういった点では、たとえ理由がどうであっても「人に負けたくない」「何もできないと思われたくない」から努力するというのは障害があるからこそなのかなと思います。

もちろん障害なんてない方がいいですし、普通の姿をしている自分を妄想したことだって数えきれないくらいありますが、普通だったらだったで今と同じような努力ができているかどうかと考えると、そこまで自信がありません。笑

そこまで強さを求められる立場じゃなかったら、「なんで頑張らないといけないの?」と思う人間だったかもしれませんしね。

良し悪しの基準や判断は、人や立場によってもちろん異なると思いますが、僕にとっては「負けず嫌いである」「根性がある」「努力できる」といった要素は生きていく上でとても大事な部分だと思っていますから、これらの要素を最低限でも備えている(と思い込んでいるだけかもですが)自分は、この点においてだけは「障害の賜物」だなと感じます

これは同時に「生きづらさ」を助長する要素でもあるんですけどね…。

のんびりと生きられるならその方が楽でしょうし、それで生きていけるならそうして生きていきたいというのが本音です。

でも現状の僕はそういった生き方に満足できない。
その理由も「自分に障害があるから」です。

障害ってほんっっっとにうっとうしい存在で、どれだけコイツから逃れたいと思っても絶対に僕を放してはくれないんです。笑

6.最後に

ということで、今回のシリーズでは障害をポジティブに捉えて書いていきました。

障害の嫌な部分、悪い部分を言い出すとキリがないですが、それでも考え方によっては、障害から得られるものも0ではないよというのを伝えたかったんです。

いくら僕でもそこまでペシミストではないですからね( ̄▽ ̄)

さて、そろそろこの文章も書き終えようと思いますが、上の「5.障害から得られたもの」の項目の最後に
「でも現状の僕はそういった生き方に満足できない」
「その理由も「自分に障害があるから」です」
と書きました。

ではなぜ、「僕には障害がある」という理由で
「楽に生きようとしない」のか。
「あえて生きにくい生き方」を選ぶのか。
この点についてはまた別の機会にお話しようと思います。

それでは今回はこの辺で。
最後までお読みいただきありがとうございました(`・ω・´)!

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