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差別・逆差別


「この前、同窓会があったんだけどね……」
先週、カフェでお茶をする機会があったときのこと。私よりも、年上の女友だちがこう言った。
「もう何十年。下手すると30年以上会ってない人ばかりだったの。みんな散り散りだったんだけど、フェイスブックで繋がってね。うん? 面白かったよ。いや。……あぁ、でもどうなんだろう。なんかね、結局、何を話していいのかわからなくなっちゃったんだよね」
「それはどういう意味?」と、私。
「もうみんな、これだけ会っていないと、顔見ても誰だかよくわからなくてね。名札を付けようってことになったんだけれども、その名札も今の名字を書くとますます誰だかわからないし、かっこをつけて旧姓○○って書いても、角が立つし」
「あぁ……」
「かっこが付いてない女性と付いている女性とで、また色々ね……」
「そうなんだ」
「で、名札は旧姓のままにすることで解決したんだけど。今度は、何を話していいか全然わからないんだよね。のっけから『いま、何しているの?』って職業を聞くのも失礼だし、ましてや『結婚してるの?』なんて聞けないし、話しぶりから結婚していることがわかったとしても『お子さんはいるの?』なんて聞けないし……」
「そうかあ。じゃあ『今日は、いいお天気でよかったですね』ぐらいしか言えないんじゃないの?」
「本当にそうなんだよ。まぁ、突っ込んでも『今、どこにお住まいで?』ぐらいでね」
「そんなんじゃ、会話も辛いよね。昔話には花が咲かなかったの?」
「何人かとは咲いたよ。でもまぁ、すごく仲良くないと共通の思い出なんてあんまりないよね……」
「はぁ、難しいね。そんなんじゃ楽しめないじゃない、同窓会。元気なのか、今何をしているかを知りたいのにね。でもさぁ。結局その場に来る人というのは、聞かれることはある程度、覚悟の上で来ているんではないの? いろいろと詮索されたくない人は、きっと不参加にマルをしているはずだよ」
「まぁ、そうなんだろうけどね」と、友だち。

でもそれ以上に「気を遣える大人」として、突っ込んだ質問はタブーとしたのであろう。それも、わからないでもない。

正直なところ、私はその人が結婚していようが、していなかろうが、どちらでもいいと思う。子どもがいようがいまいが、男が好きだろうと女が好きだろうと、どちらでもいい。犬派だろうが猫派だろうが、本当にどちらでもいいのだ。要は、幸せでさえあれば。
興味あるのは、どんな人生を切り抜けてきて、今、何を楽しくやっているかぐらいなのだ。

小学校のとき、同じマンションに年の近いダウン症の女の子(Sちゃん)がいた。
その子が我が家に預けられたとき、たまたま早く帰ってきた父は、ことのほかそのSちゃんを可愛いがった。私の5歳下の妹は(まだ幼稚園生の年少さんぐらいだった)、同じように父親にかまって欲しくてまとわり付くのだが、父はそのSちゃんとばかり遊ぶ。
最後はギャン泣きする妹。
私はその女の子が帰った後に、父に抗議した。
「妹がかわいそうだったよ! Sちゃんとばかり遊んで、妹とも一緒に遊んであげれば良かったのに!」
しかし、父は「Sちゃんは、大事にしてあげなきゃいけないんだ」の一点張りで、考えを一向に曲げない。なんなら「どうしてそんな意地悪なことを言うのだ、お前は。これではSちゃんがかわいそうだ」ぐらいのことを言われたと記憶する。そのとき、私は悔しさで泣き、父に強い反発心を持った。
今ならそのときの気持ちを言葉にできる。
「それは、むしろ逆差別ではないのか」
「差別がないというならば、妹とも等しく遊んであげてよ!」と。
父もおそらく、私への教育のために、あえてSちゃんを必要以上に可愛がってアピールした気もしないわけではない。
けれども、彼女に障害があるからあえて丁重に扱ったとすると、それはどうだろうかと思ったのだ。普段から母親に「Sちゃんとは、みんなと同じように仲良くしなさい」と言われて育ってきたのに。


同窓会もそう。かえって腫れ物に触るようにするのも、私が反対の立場だったとしたら、逆に意識されすぎててイヤだ。
既婚か未婚だかに過剰に反応しているということは、かえって「結婚していないことはマイナス」というおかしな考えが前提にあるわけで、差別を助長しているのではないかと思うのだ。
本来ならば、この「どちらでもいい」というスタンスの元、まるで血液型を聞くかのように、いろいろと質問できれば理想的なのだが。

しかし、お前は結婚していて子どももいるから、こう呑気な発言ができるんだ、と言われれば辛いところだ。
持っているものが言うのは説得力がない、と。
(独身の人は、子どもを持たない代わりに、自由を始めとして、いろいろ持っていると思うんだけどね。人生はプラマイゼロなわけで)

でも、逆に私が持たざるものだったとき。
たとえば私が10代のころ。私の家が倒産して借金取りに追われ、超貧乏だった時代。ほぼ同い年の超金持ちの従姉妹たち(ダイヤモンド貿易会社令嬢)とは、私はとてもフラットに遊びたおした。
「マコちゃんの家は貧乏だから、遊びづらい。気を遣う」なんてそぶりは少しもなかった。私は本当に従姉妹たちのおおらかさには感謝している。
それは、彼女たちが何の意識も差別もなく、とても対等に私と向き合ってくれていたからだと思う。


もちろん、誰でも自分の境遇がイヤなときもある。そんなときに、傷に触れられれば、誰だって落ち込む。
たとえば男に振られたばかりのときに「彼氏いないの?」なんて聞かれると、「うるせー」と思うし、自分のメンタルがめちゃくちゃ落ちているときに、「どこ行ったー♡」「何したー♡」なんてインスタグラムやツィッター がバンバン送られてくると、「うるせー」と思うことは今でもある。
そんなメンタルのときは、先述のように、同窓会には出なければいいのだ。
とりわけ、この2〜3時間が勝負の同窓会では、空気を読みあっているうちに、時間が終わってしまう。


きっとこの現象は、いま、価値観の変換期だから起こっているのだと思いたい。誰もがすごく高い割合で結婚をしていたときは、当然のようにみんな結婚話をしていたはずだ。誰もが当たり前のように子どもを産んでいた時代は、普通に子どもの話題を振っていただろう。

でも今は、いろんな生き方を選択できる時代になった。
しかしまだ、「結婚して当たり前、子どもを産んで当たり前」という、私より上の世代の呪いが少し残っているのだ。
だから、新しい生き方をしている人たちと、昔の呪いに囚われている人たちとの間でギクシャクしているのではないか。新しい生き方をしている人たちだって、呪いのためになぜか負い目を感じちゃっている人も、中にはいるのではないか。

やがてこんな気遣いも減るのではないかと期待する。
私よりも下の世代の人たちは、もっともっと多様性に満ちていて、個々の選択を尊重している(はずだ)から。



ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️