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東北旅3日目、書き殴り日記。

旅の中の雑記。



日記なり雑記なり記録なりを、整理して書ける以上の密度で経験を詰め込むべきではないのではないか?という仮説が出来つつある。本、旅、人との会話、など私が大切にしたい全てにおいて。
現在、イギリスの2週間とこの東北旅、二つ分の丁寧な文章を、書きたい大きな文章として溜めている。もちろん今日の私にはこれらを書くに足るエネルギーがない。

今日は東北青春18切符旅、3日目。宇都宮→黒磯→郡山→いわき→高岡→仙台→松島→平泉と楽しみ、今は、盛岡から宮古に向かう山田線の上の電車の中にいる。
2時間半の盛岡-宮古間、残り35分、ボーッととするにも本を読むにも飽きてしまい、かと言って溜めている書くべきことを書くには疲れ過ぎているので、苦肉の策として程度にキーボードを叩くことにした。(ひつまぶし)


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盛岡から宮古を繋ぐ路線は山田線と呼ぶそうなのだけど、山田線はなかなか面白い。私は多分初めて乗った、1両編成のノロノロ電車。

最初の10分ほどは残っていた民家も、駅を過ぎるごとに減ってゆき、日が暮れた今、見えるのは隣を走る川が反射する街灯の灯のみ。家の明かりはない。
あまりにも警笛をならして停止するタイミングが多いから何事かと気になって注目していたら、木々の中にかけていく鹿の可愛らしいお尻が見えた。だから常に徐行運転なのか。それに気づいてからはトンネルの中だけは数秒間上がるスピードも、なんだか愛おしい。

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旅していると変わる時間感覚を旅性相対理論と名づけてからは多分4回目の旅になるのだけど、ここ3日間も相変わらず濃密すぎておかしい。イギリスの2週間もおかしかったし、帰ってから青春18切符旅までの3日も時座ボケと自転車旅とでバタバタしていたし、そりゃ脳内飽和しますわな、の密度。幸せ。

言葉が追いつかない、または、非言語(追いつかないというよりは、そもそも言葉とは切り離された)領域の持つ力を、私は確かに理屈抜きに信じてきているけれども、ここまで言葉ではない物事が溜まると、これは大丈夫なのだろうかと少しだけ不安になる。日々変化し続ける私が、変化の途上で、何かに出会ってまた変わる。その循環が単なる円循環ではなくて螺旋階段であると信じるためには、私には言葉が必要なんじゃないかと思ったりもする。いや、登っていなくとも、ただこうしているだけで私は幸せなのだけどね。



夏の旅はテーマを設けてフィールドワークのような形にしようと前々から考えていたはずが、喧嘩などがあって、また特にテーマのない自由旅になってしまった。
スマホの電源だけは切って、インスタントな情報と快楽を断ってみたのは特筆ポイントだが、興味深い試みではあれ、形のない思惑というのは短期間でその存在を認識することが難しいので、現時点でその価値を評価するのは難しい。

ただ、自由旅と言えども宿の確保や最終的に約束の日までに宮古に着かねばならないなどの制約もあるので、日々必然のように行き先や乗る電車が定まっていく様は、なんとなく人生に重ねられて面白かった。
自由に生きようとしても、どこかしらに何かしらの到達したい点があれば、ある程度は行き先は定まっていくもので、良く言えば「人生に途方に暮れる必要はない!」だし、悪く言えば「自由に生きるったって、タカが知れてるよ。」ですね。

一方で、文化人類学に関する本を読んでいて好きになった隣の女性が降りた駅に、慌ててついて降りてみたら、そこは平泉で、お陰で全く頭にもなかった中尊寺に行き、わんこそばを食べることになった、というようなこともあった。
こちらを人生的な感じで言うと、「偶発的な出会いや思いもかけないような偶然で、人生が変わるような変化があったりなかったりすることもあるみたいで、まだまだ20年ちょいのこの人生、やっぱり面白いですよね。」でしょうから、まぁ色々ですね、人生。
自覚はないけどどうやら人生に悩んでいるみたいなので、大き過ぎるワードが頻出だぁ。

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それにしても明日はどうしようかが決まっていない日々は楽しい。同じくらいに疲れるので、決めると言うことにはエネルギーがいるのだなぁとも思うけど。

そういうわけで宮古についた。今日も寝る。今日も良き1日、明日は明日で色々だ。

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