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お千鶴さん事件帖「花火」第三話②/3

 千鶴は、最後となった咲の髪結いの日のことを思い出していた。
 
 昼前から、かんかん照りの暑い日だった。細いつるの先の大輪の朝顔は、ピクリとも揺るがない。
 隣長屋のお産の手伝いに借り出されたものの、なかなか子は現れず手間どった。あのときばかりは蝉の声がやけにうるさくて、生まれてくる赤子には申し訳ないがイライラしたものだ。そして難産の末にようやく小さな頭がのぞいた。
 ――深川を案内してあげる。早く出ていらっしゃい。
 赤子にそう、必死で呼びかけた。
 八つ半頃に来るようにと店の者から頼まれていたので、その後大慌てに慌てて駆けつけた。咲とは他のお得意さんからの紹介で、この二、三年ほどのお馴染みである。
 千鶴は重い髪結い道具を慣れた手つきで、ひょいっと持ち上げる。中には、黒と白の元結、ハサミ、びんつけ油、くしなどが入っている。飾り用の、くしやかんざし、こうがいなども念のためにもち歩いている。客が新しいものを所望する場合があるからだ。髪結い稼業の女は、地味な着物にいつも前垂れをするのが慣わしなので一目でわかる。
 千鶴の母、光は小さい頃から口を酸っぱくして言ったものだ。
「よそ様を身なりで決め付けてはなりませんよ」と。光の言うように、もちろん身なりで人物の良し悪しはわからない。しかし、見ず知らずの人物の人となりを、身なりで思い測るのは、いたしかたのないことだし、稼業や役割が知れるのは案外役立つものだ。八丁堀の旦那は、見てすぐわかるし、主人と奉公人の違いは、明らかだ。人は生まれながらに、同じじゃないと小さい頃から思い知る。
 咲の住む小間物店の表の構えは小さいが、一歩中に入ると季節の花や行事の小物が品よく飾られているので、若い娘から年配の客まで幅広い層に受け繁盛している店だ。
 髪結いの間、咲はいらないことをペラペラとしゃべるような軽い感じの娘ではなかった。それが、あの日は妙に話がはずんだ。
「この小袖はね、同じ反物を二枚使って母と私が一枚ずつ縫ったの。教えてもらいながら初めて全部縫った思い入れのある小袖。私が作った方はとても見られたものじゃないから、母の縫った方を着ているけど」
 と、恥ずかしそうに首をかしげた。卵形のつるりと磨いたような白い肌と桃色の頬に一瞬釘付けになる。千鶴のような年上の女から見ても、なんて可憐で清楚な子なのだろう、と横顔に見惚れた。
 歌舞伎見物に着て行きたいから、どちらがいいか選んで欲しいと聞かれたときに、指差した小袖が、咲の最後に身に着けていたものだった。
 咲のお気に入りの着物であったようで、大きな瞳をさらに見開いて「やっぱり」と、言いながら満足気な表情を千鶴に見せていた。
「清太郎さんは、さぞや良いお方なのでしょうね。この度は、本当に、おめでとうございます」
 水を向けると、咲の顔が、ぱっと花が開いたように赤らんだ。
「父のことがあったから、祝言は少し延期したの。でも、清太郎さんは以前にも増して私のことを気遣うようになってくれたから。どんなに、心強いかしれない。あの方なしには生きていかれないと思う。その分、私もできるだけのことをして差し上げたいの。生涯あの方を支えていく、と心に決めました」
「前世から赤い糸で結ばれていたのですよ。本当に良かった」
 千鶴は陳腐な返答だと思いながらも、似合いの夫婦になるだろうと、半ば本気だった。
「私が選んだ人ですもの」
 咲は照れ笑いをしながら、手鏡を後ろ手にもって髪の出来具合をそっと確かめた。一方的に大店の若旦那さんに見初められ、玉の輿に乗ったお人形さんではないと、その時強く思ったものだ。
 恋は人を何倍も強くさせるものに違いない。千鶴にも覚えがある。周りから反対されるほどに、かえってのめりこむ。あの頃捨て子だった自分を育ててくれた両親ほど尊いものが他に見つかるなど思いもしなかった。
 愚かとも思えるほどの恋の熱病は、たぶん一生の中のほんのわずかな時なのかもしれない。でもそのひと時があればこそ、甘美さと引き換えに恋に苦しむ己の弱さをかみしめるだけの力を得る。その後の長くて退屈で、時には苦しい時でさえ凌ぐ術を与えてくれるのではないか、と今では思えるのだ。
 あの日の咲の横顔は幼くまっすぐで、美しかった。恋をして美しくなること、それ以上に大切なものがあるのか、とさえ思えた。
 初恋は花火と似ているな、とも。
 

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