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55歳にして初めてのクモ膜下出血経験記

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何の冗談でもシャレでもなく、脳にできていたらしい(知らなかった)動脈瘤がブッシャー!!といっちゃいました。 記事はところどころネタかましながらも赤裸々に書いてますが、二度とこんな… もっと読む
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1年後の検査のお話(伍)

このままでは入院レポより長編になってしまう。今回で予後検査の話は完結させねば。。。 数ヵ月前から恐れおののき暮らし、俎上の鯉のような心境で臨んだ本番検査のあとには、6時間、微動だにできない安静を要します。 当然です。人間の命をつなぐ最も主要なそれこそ大動脈を貫通し、人が人たるための超精密機関である脳を体の内側から見る施術。事後にどんなエラーが勃発するかわからないのが人体ってもんです。 ところでこの安静、ただ寝てればいいなどという生ぬるいものではありません。 指先と顔面

1年後の検査のお話(肆)

文字通りの紆余曲折を経て、カテーテルは(おそらく)私の脳大動脈に到達した(と思います)。 括弧付きの、何か物が尻に挟まったような書き方をしているのは、術中にあまり実感がなかったからです。血管壁ってつくづく痛覚ないのね('A`) その細い管は、私の鼠径部から腎臓の間(腹部大動脈)を抜け、肺の間(胸部大動脈)から頸動脈を経由し、私の脳大動脈へという、非常に複雑な旅を辿るのでありました。 この旅、寝過ごしてただ漫然と直進すると、心臓に到達してしまいます。そうなったらただごとじ

1年後の検査のお話(參)

点滴針は、やはり私の想像したとおり、「私の最も自信のある箇所」に刺されることになりました。肘を曲げないという条件付きで('A`) そして点滴は1本管なので、スタンドさえ引きずって行けば(とりあえず)トイレに行くことはできます。あえて括弧付きにした理由は後でわかると思いますのでここでは割愛します。 1年前の手術の時とは打って変わって自由。健康って素晴らしい♥ そして、時間がやってまいりました。はい、検査に、呼ばれました。 私は、看護師に率いられ、「歩いて」その場所に行き

1年後の検査のお話(貳)

予備知識皆無のまま、検査当日がやってまいりました('A`) 外来とはちょっと離れた狭ーい受付で手続。事前に渡された同意書(意外とエグいことが書いてある)等何枚もの書類を提出して、あっさりとした入院手続を終えた後、私服のまま病室へ案内された私、心の中はヘンな汗ですっかりしっとり。 「検査まで2時間近くありますので、これに着替えてゆっくりしていて下さいね」 看護師から渡されたのは、前回入院時に着ていたものとは明らかに形状の違う検査用ガウンに医療用ソックス、そしてT字帯。

1年後の検査のお話(壹)

無事、10月19日に退院一周年を迎えました。この1年間、特に大きな事故も病気もなく、あかん事件や面倒な騒動に巻き込まれることもなく、ほぼ健康に過ごせたことにあらためて感謝です。救われた命、大切にしなければとあらためて思います。 現在は、3ヵ月に1度の通院だけで済んでいます。これまで脳波や採血、MRI撮影など、数々の検査を受け、毎回「お墨付き」をもらっています。 そしてとある通院日、主治医からこう言われました。 「次回の検査は、1泊の入院になるからね」 あー、人間ドック

不謹慎を承知のまとめ

そして退院から2ヵ月経過した今、私は、僅かに後遺症を残すだけで、倒れる前とほとんど変わらない生活ができています。 但し、私のように脳動脈瘤が破裂した場合はこの病気では少数派です。 (それぞれ1/3の割合で、死亡、高度障害、回復、だそうです) そこで、私がこの少数派に入れた要因を、不謹慎な要素を含むことを承知で列挙させていただきます。 1. 発症時、(平日にもかかわらず)家族が在宅していた。 2. 家族(在宅時は大抵寝ている)が、私の異変に気付いたのが早かった。 3

偉大なる医療のゼネラリスト

看護師のことです。別に媚びも諂いもしていません。 いくら私が好き勝手ワガママ言いまくって、謝罪する機会を失ったからと言ってこの記事を書く訳でもありません。あんなすごい職業は他に知りません。 誤解を招きやすい表現ですがはっきり言います。まず、入院患者というのは、いわゆる普通の健常者に比べてはるかに凶暴で野蛮で無礼です。 人間弱いもので、体のどこかに不安を抱えてしまうと、心まで病んで荒んでしまうのは明らかです。つまりは自分以外の他人にまで気が回らない。そして自分に関わろうと

まだ書いていなかったこと

退院してから1ヵ月以上経つと、あれだけ強烈な体験をしても、大多数のことを忘れます。 でも、とりあえず憶えているものは書き留めておかないともったいないので、記憶にある限りを書き残しておきます。 リハビリについておそらく、私の意識が完全に正常に戻らないうちに最初のリハビリは始まったと思います。初期の頃は、リハビリが終わったら、またベッドに括り付けられていたと記憶しています。 体がまだフワフワな状態って、自分が今、どういう状態なのかを認識していませんし、認識しようとする意思す

モンスターペイシェントと医療現場と私

季節は、あっという間に10月になりました。 あの暑かった日から1ヵ月、すっかり秋になっていました。 病室からは何も見えませんが('A`) そして私は個室から6人部屋に移動になりました。そこには社会生活というか、共同生活というか、そういう温和な雰囲気はまるでなく、患者同士のコミュニケーションは、当初は皆無でした。 そんな中から、私が状況観察にて知り得たことを、ありのままに、話すぜ。 6人部屋とはいえ、日々患者は入れ替わります。その中でもインパクトがあったのが、私の向か

入院中最強アイテム現る!

前回、ようやく食事が摂れるようになった話をしましたが、小ネタはまだいろいろあるんです。 ベッド、あれ、上半身を自動で起こせるようになってるじゃないですか。私も調子ぶっこいて体を起こしてみました。でも当時はまだ、私の上半身はベルトで拘束されたまま。 この状態で上半身をほぼ垂直に起こすと、背骨がS字に、縦に圧迫されるんですよ。痛い。ってか折れる。危ない。当然のことながら、看護師さんに怒られました。どうやら私は上半身を20°~いくら高くとも30°くらいまでしか起こしてはいけない

療養中の食事を自分で選択する罠、そしてとにかくよく倒れるようになった私

汚い話ばかり書いていると引かれるので、その他あったことも、ありのままに、話すぜ。 点滴チューブが腕だけになった頃、私の経口摂食が始まりました。「待ちに待った食事」とはとても言えませんでした。食欲がまるで出ない。箸を持つ気すら起きない。 それでも、食べないと消化器官が退化してしまいますよね。摂取できる栄養源も限られてしまう。私はいつまでもここで寝たきりの生活に甘んじている訳にはいかないのだ。 ただただ社会復帰、それだけを目標に、出された病院食に立ち向かいました。。。 摂

9月の記憶(後編)

突然ですが、「旅行者下痢症」って病気ありますよね。 私はその真逆です。環境が変わると出なくなるんです。 入院中もそうでした。とはいえ、9月前半~中盤は、栄養源が点滴のみでしたので、「大」についてはさほど気にはかけていなかったんですが。。。 経口摂食が少しずつ始まり、1週間ほど過ぎた頃のことです。 「ヤツ」は、何の前兆もなしにやってきました。てか、1週間出ないってのも異常ですよね。ということで、看護師が「下剤でも追加しましょうか?」と、これまたロクでもないことを提案して

9月の記憶(前編)

手術は無事終わりました。とはいえ最初に目が覚めたのはその1~2日後ですが。 体中管だらけで、特に太いドレーンが挿管されている手首上腕部や、鼠径部周辺は黒痣で皮膚が醜く染まっていました。これ、一生消えなかったら嫌だな。。。 例の人工呼吸に関しては、鼻腔挿管されていました。あれ、想定していた以上に不快です。 そして上半身は、ベッドに拘束されていました。そしてその隙間を縫うように複雑に点滴チューブが何本も絡み合っていました。 周囲は計器だらけ。ということはここはICUだな。

謎の昏睡は続くよいつまでも

ともあれ、私は最寄りの総合病院に搬送されました。 これ、実はすっげいラッキーなことなんですよね。このご時世、空き病床とかICUとか、医療体制とか、すべてが足りていません。遠隔地の得体の知れない病院に担ぎ込まれる方が「当たり前」。 最寄りだからこそ、いち早く処置もできる。処置が早ければ死亡率も低くなる。生きてても重い後遺症が残るリスクも減る。私に「何か」があった場合、家人が駆け付けやすい、など。。。 幸運に幸運が重なり、私は「ほとんど一瞬だけ」目を覚ますことができました。