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久しぶりに卒業アルバムを開いた話

偶然だが、上記の記事を見つけた。読んでみると、とても複雑な気持ちになった。その気持ちをこの記事に書き留めていきたい。

私が記事を読んで思ったのは、以下の2点である。

・今も昔も変わっていない。
・否定しないでくれてありがとう。認めてくれてありがとう。

なぜ、このように思ったのかというと、私も小学校6年生の時、似たようなことをして、書き直しを要求されたことがある。少し、その時の話をさせてほしい。

私は6年生当時、いじめられていた。といっても「キモイ」や「キショイ」と言った悪口を言われたり、無視をされたり、私が触れたものに対して「気持ち悪いから触りたくない」といった、よくあるものだ。相対的にみても軽いものであるだろう。ただ、一部の生徒、特に女子陣の力が強く、毎回女子からの悪口が多かったのを覚えている。

このような状況に対し、担任の先生の方針もひどかった。毎回注意されるのは男子ばかり。女子には何も指導せず、男子が指導を受ける場面が多く見られた。私はこれを「女性優先主義」と呼んでいた。要は差別を受けていたわけである。

さすがに、先生や女子陣の態度に嫌気が差し、教室を飛び出したこともある。この件についてはいずれまた話したい。

このような学校生活を送る中、卒業文集を書く時期になった。詳しくは覚えてないが、卒業文集で書く内容は何でも良かったと思う。、「修学旅行の思い出」「陸上大会、サッカー大会の出来事」「6年間の学校生活」等をあくのが一般的なのだろう。実際にそのような内容が多かった。(この記事を書くために、卒業アルバムの中身を確認した。)

しかし、私には小学校生活、特に小6の時の思い出など特にない。また、他の人とは違う内容を書きたいという気持ちもあった。その結果、「いじめ」と関連付けて、一冊の本を紹介する内容にした。その時に紹介した本は重松清先生の『きよしこ』である。

https://www.shinchosha.co.jp/book/407504/

主人公のきよしの境遇と自分自身の境遇をどこか重ねてたのか、それとも別の意図があったのかは覚えていない。しかし”いじめは悪いことである”ということを訴えたくて、この本を紹介した卒業文を書いた。

卒業文集を書き終えた私は不安になった。本当にこの文を提出していいのかを考えていた。色々と迷ったが、提出することにした。

数日後、担任の先生から別室に呼び出された。そこで言われたのが書き直しの要求である。この時に言われた言葉は覚えている。

「卒業アルバムはずっと残るものだし、外部の人も見ることになる。その卒業アルバムに載せる内容としてふさわしいのか考えてほしい」

この時、私は「・・・そうだよな・・・」と思った。多分、大人の言っていることだから正しいことなんだろうと感じ、書き直すことを受け入れた。

その後、どういう経緯を辿ったかは覚えていない。変更後に書いた卒業文集は「六年生の休み時間の使い方」という薄っぺらい内容だった。唯一の救いは他の人と違う内容を書いたということである。


以上が私の経験した卒業文集の出来事である。書き直す以前の文はどうなったのかは覚えていない。今考えると、原本は残しておくべきだったと思う。

このような出来事があったため、一番最初に紹介した記事を読み、「今も昔も変わっていない。不都合なことがあれば、隠そうとするのか。」と思った。


だが、それと同時に思ったのが、感謝の気持ちである。上記の自分語りの通り、私もいじめのことを卒業文集に書き、書き直しの要求を受けた。そして、その文は闇に葬られたのである。一方で、紹介した記事の娘さんの卒業文も似たような理由で書き直しを要求されたが、noteを通して公開をしてくださった。この行為が嬉しかった。私の否定された卒業文を肯定された気持ちになった。だから、「ありがとう」という気持ちになったのである。

以上が私の思ったことである。私は他の方々ような立派な意見を持っているわけではないし、紹介した記事の方々のようなできた人間でもない。そんな私ですが、この記事には色々思うところがあり、複雑な気持ちになった。だが、一番伝えたいのは感謝の気持ちである。

重ね重ねであるが、お礼を言いたい。否定しないでくれてありがとうございます。認めてくれてありがとうございます。

(勝手ながら、横山小寿々様の記事を引用させていただきました。何か不都合であったり、迷惑であったら教えてください。すぐに削除いたします。)

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