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【表現研】ホラー映画評 『ヘレディタリー/継承』

※本記事の内容には作品のネタバレが含まれる可能性があります。ご注意ください。

疲れている。久しぶりにストレスが閾値を超え、スポーツジムに行く気すら起きない。こんな時には大好きなホラー映画を見るに限る。ということでアマプラで下記をレンタル。

題名:ヘレディタリー/継承
監督:アリ・アスター
出演:トニ・コレット 他
年代:2018年日本公開
あらすじ(公式HPより転載)
グラハム家の祖母・エレンが亡くなった。娘のアニーは夫・スティーブン、高校生の息子・ピーター、そして人付き合いが苦手な娘・チャーリーと共に家族を亡くした哀しみを乗り越えようとする。自分たちがエレンから忌まわしい“何か”を受け継いでいたことに気づかぬまま・・・。

やがて奇妙な出来事がグラハム家に頻発。不思議な光が部屋を走る、誰かの話し声がする、暗闇に誰かの気配がする・・・。祖母に溺愛されていたチャーリーは、彼女が遺した“何か”を感じているのか、不気味な表情で虚空を見つめ、次第に異常な行動を取り始める。まるで狂ったかのように・・・。

そして最悪な出来事が起こり、一家は修復不能なまでに崩壊。そして想像を絶する恐怖が一家を襲う。
“受け継いだら死ぬ” 祖母が家族に遺したものは一体何なのか?

以上転載終わり

この映画、現代映画の頂点と批評家から激賞されているらしい。批評家受けする作品なんて小難しいばっかりであまり怖くないんじゃないの?と疲れた身体とやさぐれた猜疑心を持って鑑賞した。



ちゃんと怖かった。がっつり怖かった。

久しぶりに”本物”に出会えた気がする。せっかくなので備忘録として本記事を執筆するが、本作についての総括的な評論は巷であふれているため本記事では、本作の恐怖の構造について各論的に思うまま私見を述べてみようと思う。

■ナニも出てこないのに怖い!
本作は公式あらすじからもなんとなく想起できるように、いわゆるオカルトものである。カルト宗教が出てきて、悪魔の存在があって、娘の様子がおかしくて・・・。非常に伝統的なプロットと言える。しかし本作では神父による悪魔祓いや、あからさまな超常現象はほとんど登場しない。そこで描かれているのは、あくまである悲劇に見舞われた家族の姿そのものである。そんなのただのヒューマンドラマじゃないか!ちっとも怖くないじゃないか!と思われる方もいるかもしれない。しかしちゃんと怖いのである。どういうことか。ここまで読んで気になった方は是非、レンタルして鑑賞してみてほしい。以降、割とネタバレが増えてくるので注意してほしい。

■鑑賞者の自己投影としての主人公。
ホラー映画の主人公は平凡・凡人であればあるほど良い。作品を見ている鑑賞者達と同じタイミングで違和感を感じ、同じポイントで恐怖を感じることで主人公は次第に鑑賞者達と同化していく。気づけば画面越しに眺めていた鑑賞者達は、画面の中で主人公の目を通して世界を体験している自分に気づく。こうした『主人公=平凡、常識人』と置くことで視聴者の共感を得ようとする手法は古来よりホラー業界では常識的な手法である。本作も例にたがわず一定、この手法を用いている。序盤、トニ・コレット演じるアニーは少し変わった娘チャーリーに手を焼きながらも良き母であろうと奮闘している様が描かれる。息子はマリファナパーティに行くし、娘は明らかに懐いていないし、自身は実の母親を亡くしたことから精神のバランスを保つので精いっぱい。本当に気苦労が絶えないことだろう。多くの鑑賞者は母アニーに同情し、少なからず共感を抱いたことだろう。これがアリ・アスター監督の巧妙な罠だと気づかずに・・・・

■投影先の喪失/不安
物語が進むにつれて母アニーの狂気性が徐々に顔を出すようになってくる。夢遊病だった過去。家族に起きたおぞましい悲劇をそのままミニチュアハウスで再現しようとし、且つそのこと自体の異常性に全く自覚のない様子。徐々にヒステリックになり、しまいには夢遊病が再発し、幻覚を見るようになっていく。鑑賞者はそれまで自身の”依り代”にしていたアニーの崩壊にさぞ驚き、不安を抱いたことだろう。こうした、主人公の狂気性を後から解放し恐怖をあおるという手法自体はもはや古典である。キューブリック版『シャイニング』のジャック・ニコルソン然り、ポーの『早すぎた埋葬』然り。綾辻行人のオムニバス小説『フリークス』では、精神病棟の患者がいわば狂言回しとなって、明晰な語り口調でミステリーが展開されていくが、語り手自体の狂気性が徐々に明らかになり、その実、語り手不在の狂気の世界にポツンと読者を置き去りにしてしまう点、ミステリというよりもはやホラーである。妻が小野不由美なことも影響しているのだろうか。
少し話がそれたが、この「投影先の喪失」手法は多くの作品では大オチで使われるほどインパクトの強い手法であるのだが、本作の特筆すべきはこれをオチではなくあくまでラストへ効果的に誘うための調味料の一つとして使用している点だ。ちゃんともっと怖いラストが別にある。母アニーの狂気性に不安と恐怖を抱きながら鑑賞者は徐々に本作の大オチに導かれていくことになる。ラストの部分はさすがにネタバレを避けるが、私が苦手なオカルト味の強い描写をある程度受け入れられたのはそこに至るまでの描き方が非常に丁寧だったことが大きいと思う。また、トニ・コレットの怪演、圧倒的な存在感が作品に凄みを持たせたのは間違いないだろう。この記事のトップ画像のトニ、シックスセンスでハーレイ君のお母さんをやっていたとは思えない・・・。

■細かい部分
物語序盤の部分で、アニーは部屋の隅で死んだはずの母親の幻影を見る。当然アニーは驚くが母の幻影は自分に語り掛けてくることもなく、結局何事も起こらないままそのシーンは終了する。そして(私の確認不足かもしれないが)そのシーンは別に何の伏線でもなく、その後のストーリーに影響を与えることはない。私はこのシーンに強くJホラー味を感じた。それが霊であるのかそれとも主人公の狂気が生み出した幻影なのか。主人公の念が生み出したものなのか、死んだ母親の想いの残滓なのか。すべては曖昧で曖昧なまま。こうしたすべてを明確にせず解釈の遊びの幅を残すような描写はJホラーによくあるプロットだ。あいまいな描写を重ねることで主人公の狂気と怪異事態の脅威の境目をあえてファジーにし、鑑賞者の不安をあおる効果がある。アリ・アスターがJホラーを念頭に置いていたかは分からないが、様々な角度から鑑賞者に打撃を与えんとする意志は感じる。恐ろしい監督だ。

とにかく本作はこれまでのホラーコンテクストで発見されてきた技術をかなり高い水準で作品に織り込むことに成功している点で、非常に完成度の高い作品だと思う。ただ一つ文句をつけるなら、ラスト3分前のシーンでエンディングを迎えてほしかった。そこが恐怖のピークだった。最後の3分は私からすると蛇足だ。ジェットコースターの最後の急降下を終えた後のクールダウンのようで恐怖感を下げてしまった気がする。急降下直後の一番最高潮の瞬間に外に放り出されてしまうような、そんなエンディングのほうが私は好みである。(単純に好みの問題であるが)
いずれにしても本作が秀作なのは間違いない。ホラーは結構いける口だよ、という方は是非一度干渉をお勧めしたい。ホラーが苦手だという方、感受性が強めな方、“家族”というモノに対し、何らかのトラウマを自覚している方は、見るのは辞めておいた方がいいかも知れない。思いつくままの乱文であるが一つの秀作を鑑賞した記念にホラー映画評としてここに残しておく。


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