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第38話:斜陽

 いつでも外出できるわけでないしのぶの専らの娯楽はと言えば、テレビかネットか読書である。もっと他者と関わった方が社会に関わって生きている感覚を味わえるのだろうけれど、その関わりを面倒に感じるしのぶは、物語の登場人物と出会うことでそれらを賄っている気になることもしばしばであった。
 ガラス戸から差し込む日差しが温かい縁側にヨガマットを敷いて、座ったり寝転んだりと姿勢を変えながら太宰治の「斜陽」を読んでいて、先日のメイコを思い出した。
 ぶっこちゃんが昼寝をしている隙にわざわざ赴いたのは、ぶっこちゃんの今後についての相談をするためだったのだが、その際のメイコの様子に、亡き祖父満の介護の時と異なる雰囲気を感じたのだ。
 しのぶは、孫という立場で祖父母と長い年月を過ごしたわけだが、ほとんど外出していて偉そうで自慢ばかりしていた祖父、満よりも、愛嬌者で常に傍に居たぶっこちゃんを好んだ。
 ぶっこちゃんのことを気にかけて、ちょくちょく来てくれるメイコの様子からも、自分の母を愛しているものと思い込んでいた。
 だが、先日メイコは、自分は離れて住んでいるのだから、色々そっちで決めてくれて良いということを言った。
 しのぶは、ひ孫たちが来るとぶっこちゃんの表情が変わるという話をした。だから、頻繁に連れてきてほしいという流れにしたかったわけだが。
「外孫よりも内孫がかわいいから、ひ孫も外より内がかわいいわ。しのぶちゃんもはよう子ども作ったらどない」
 そう、メイコは言った。
 同じ孫であるのに、嫁いだ娘の子どもよりも、同居していた亡き息子、清一の子ども、つまりしのぶのことをぶっこちゃんが可愛がっていたということを、メイコは言うのである。
 そう言われてしまっては、しのぶはそれ以上何も言えなくなってしまった。メイコがそう感じたというなら否定は出来ない。序列をつけるなら連れて行きたくないと、言っているように聞こえた。
 昭和初期の、嫁に出る感覚の根付いた時代感や、物理的環境の相違を考慮すれば、内孫と外孫に愛情の違いが生じるのは無理の無いことのようではある。
 現にしのぶ自身も父方の祖父母には愛情をもらったのかもしれないが、母方の祖父母など会ったことも無い。そんなことくらい、メイコも心得てはいると思うのだが。
 心得ていると思ったならば、問題は他にあるのだろうか。自分の知らないところで、何かしらの下手なやり取りがあったのかもしれない、と勘ぐってみたりしても始まらないが。いや、若しくは単に自分が忙しくなって、あまり手伝ってやれないよ、ということなのかもしれないが。
 とにかく、思いがけずぶっこちゃんとメイコに「母と娘」を感じたわけである。
 しのぶには幼い頃から母はいないし、娘もいない。故にその関係の複雑さは、幸か不幸か経験できないでいる。ともすれば、母との不仲の代わりに、父と不仲だったのではなかろうかと思ってみたり。
 兎も角、ぶっこちゃんの具体的介護についてどう進めるか、メイコの承諾は不要であるらしいが、それでも実の娘なのだから、可能な限り関わりたいという思いはあり、ぶっこちゃんの支援に三つのポリシーを掲げてみた。

一、本人主体
二、関係者の連携
三、情報伝達

二と三は共通するところもある。幸太も含めて、皆がおよそそれぞれに異なることを心に思っていることだろう。こうすればいいのに。ああしてくれたらいいのに。それを意見として、皆が開示して、総合的に考察して、本人の希望に合致するか確認して、実行可能か精査して、といった、対話が必要だとしのぶは考える。そこに、プロに入ってもらおうなどと考えている内に、太宰に集中できなくなってしまった。

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