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第49話:淡い思い

 朝からぶっこちゃんが玄関前ソファを占領し続けている。3月に入ったばかりでまだ寒い時期なのに冷暖房のない玄関前から動かない。しのぶが掃除機がけをしていても、ひょいと両足を上げてうまいこと避ける。
「寒ないん?」
 声をかけても返事をしない。ということは寒いのだなと思い、しのぶはブランケットをかけてやった。ぶっこちゃんはブランケットにくるまって、イモムシのようになった。
 日曜日の午前十一時。およそ見当はついている。幸太を待っているのだ。
 たいてい週末はぶっこちゃん宅に泊まる幸太だが、今週は日曜日に用事があるからと昨日の夜に帰ってしまったのだ。つまり、今日いくら待っても幸太は現れない。がしかし、ぶっこちゃんの都合の良い脳みそは不都合な現実を理解しない。そんなわけで、朝の9時からずっと、待っている。
「もう戻ってきたんか?」
 食事の知らせにやってきたしのぶに問いかけた。
「戻ってきてない」
 しのぶは常に、ぶっこちゃんが理解しやすいよう短く返答するよう心がけている。
「戻ってきたんか、足音聞こえるか?」
 ぶっこちゃんはそれでも都合良く聞き取るようだ。
「聞こえへん」
「ええ、そんなこと言いなやぁ」
 ぶっこちゃんはふてくされて見せる。
「戻ってきた言うてほしいんか?」
「うん」
「ほな言うたるわ、戻ってきた。これでええか?」
「ええ」
 素直と強情が入り混じったぶっこちゃんの会話に、しのぶはいつも乗せられてしまう。
「ごはん食べよ」
 しのぶが優しく誘うと、しぶしぶ動いた。恐らくは、寒かったのかもしれないし、お腹が空いてきたのかもしれない。
 お気に入りの桃色茶碗に盛られたキラキラ光るごはんを、上品に持った箸で頬張る。食べながら、視線の先には今日の朝刊が開いた状態でテーブルにあった。
「これ、おじいさんか」
 ぶっこちゃんからは手の届かない新聞の広告欄に、老いた男性が笑っている。栄養補助食品の宣伝らしいが、ぶっこちゃんの視線からはどうもその男性のことを言っているらしい。そして、ぶっこちゃんがおじいさんと言うのは恐らくぶっこちゃんの父、亀太郎のことだろう。
 亀太郎はしのぶが六歳のときに他界したのでほとんど記憶にはないが、新聞の広告モデルに、なんとなく面影が無くもない。
「ちゃうな」
 しのぶはこういうときに馬鹿正直が出てしまう。「そうや」と返事したならばぶっこちゃんは喜んだかもしれないのに。
「そうか、色が、なぁ……でも、太さも、そうやで……」
 ぶっこちゃんはごはんを口の中でもぐもぐさせながら、届くはずもない手を新聞に延ばす。
 色って、白黒やんと思いながら、新聞を取ってやる。ぶっこちゃんはそれをしばらくまじまじと眺める。
 ぶっこちゃんはどうも、亀太郎のことが好きらしい。これまで聞いたところによると、母親と異なり優しく温厚な気性だったと。姉妹沢山で育ったぶっこちゃんであるが、幼い頃自分だけが連れてもらって出かけたことがあるとか、わらぞうりの編み方を教えてくれたとかいうエピソードを聞いたことがある。だが、その思いが本物だとしのぶが認識したのは最近のことで、それはぶっこちゃんの妄想に登場したからである。
 ぶっこちゃんは会いたい人に妄想で会う、というのがしのぶの解釈だ。認知症になると、もう会えないけど会いたい人に会うことができる。なのでぶっこちゃんが妄想の話をするときはいつも笑顔だった。物語などはない。お父さんがおったとか、子どもたちが来たとか、そういうものばかり。ただ、これまでにぶっこちゃんの夫である満の話は聞かない。

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