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第43話:しのぶ

 しのぶは自分の生き方について計画を立てるタイプではなく、流れに流されてその時々に良いと思った選択をして今に至っている。高校までは地元の公立に通い、特に何かに興味するわけでもなく、たまたま地元に新設された大学の学生募集のポスターを見て一期生ってかっこいいという思いつきの不純な動機で受験したわけだが、何かを学びたいという気持ちなどもないままに医療系はハードルが高いという排除法で幼児教育を学んだわけだが、決して子どもが好きというわけではなかった。高卒で就職する友人も多くいたが、働かずに進学を選んだのは単純に働くことに対する前向きなイメージを持てなかったからだ。
 高校時代にアルバイトでコンビニやファミレス、ファーストフードという社会を経験してみたが、あくまでもアルバイトはアルバイトであって、部活の一種くらいにしか思えなかったし、彼氏彼女探しの場所という方がピタリとくるように感じていた。
 アルバイトと社員の間には明らかな隔たりがあるように感じていて、どうしてもあちら側の感覚というものを掴むことができなかった。そのあちら側の人たちは常に険しい顔をしていて、しのぶは社会人というものに対して良いイメージを抱けないでいた。
 大学を出てどうしたのかと言えば、幼児教育を学んだが故に自分には不向きだと悟り、保育士にはなるまいと、またもや排除法で何者にもなれないままに、都心にあるシティーホテルのカフェでアルバイトをしていた。
 当時はホテルで働くこと自体がかっこいいと思っていたのだが、慣れてくるとどうでも良くなり、掛け持ちでスポーツジムの受付や水族館の清掃員もやってみたが、そのあたりで自分は元来何かに向かって意欲的に頑張るぞという熱量に欠けるんだということに気付いた。
 何人か、恋愛して付き合ったり別れたりということもあったが、結婚にも思考が及ばず、一体自分はどこに向かうんだろうかと若者らしく悩んでいたときに幸太と知り合った。
 無気力の頃、アルバイト先のホテルから社員にならないかという話があって、無気力なまま「お願いします」と返事をしたら社員研修があるということで参加したときの外部講師の一人に佐伯幸太がいた。
「社会的包摂と合理的配慮」
 これが佐伯幸太の講義テーマだった。幸太は某私立大学の教授で、友人であるホテル支配人に頼まれて講師を引き受けた。しのぶとしては他の講義同様学びの姿勢で聞いてはいたが、学生時代より勉強することに苦手意識があるものだから、正直楽しいとは思えない。ただ「マナー講座」や「接客英会話」といった、自身が身につけるべきお勉強という項目と異なるのは「人」について自分で考えるきっかけをもらえたことである。
 社会には様々な人がいる。それを私たちは自分たちが理解しやすくするために無神経なラベルを貼って障害者とか、マイノリティーの人たちだとか言っている。そもそも、全世界七十億の人は全て違う。そしてその人々が色んな思いを持って助け合いながら活動して生きているのが社会。一人きりで生きている人はいなくて、誰もが誰かのお世話になって生きている。だから、困っている人がいて、自分が役に立てるなら手を差し伸べる。これは、誰のためとかではなく、仕事だからでもなく、人という生物が生存するために持ち合わせた本能の領域だと僕は思う。と、幸太が言ったその言葉にしのぶは無感動から解き放たれたかのように身震いをした。
 一番後ろの席で、しのぶは言葉をノートに書き留めた。そして珍しく講義終了後、帰ろうとする講師の後をつけて、人気が少ないところで呼び止めた。
「あの、ちょっと困っているんですけど、話を聞いてもらえますか」
 呼び止められて不思議そうに振り返った幸太だったが、すぐに笑顔を見せて
「僕で良ければ」
 そう言って名刺を渡した。
 しのぶは名刺を持っていないので「南野しのぶです。このホテルのカフェで働いています」と言った。
「あ、でも、話は外の方がしやすいかな」
 しのぶが小さくつぶやくと
「では今夜迎えに来ます」
 という急展開になって、少し後に恋愛に発展し、5年後結婚するに至る。
 それが二年前で、流れに流されて生きてきて今があるのだからと、自分の運だけには自信を持っている。
 表面的に人と関わることは可能ではあるが好みはせず、集団においてはもはや苦痛を感じることの方が多い。何か秀でた技能があるわけでもなく、夢中になる趣味もない。ただ、身近な人や事象を観察して客観的に思考することはよくあって、それを何かの媒体にアウトプットできたならば収入にでもなるのかもしれないが、そうしたことには興味を持てないものだから、一般的にはそういうことを無駄と呼ぶのかもしれない。
 本当は、これからのことをもっと真剣に考えなければならないのかもしれない。ぶっこちゃんのことや、お金のことや、自分のこと。もしかしたら、この先子どもができるかもしれないし。そうしたらぶっこちゃんのお世話がしんどくなるのかな?
 しのぶは斜め上の天井と壁の境界線あたりを見つめて想像してみたが、そこに映ったのはぶっこちゃんが赤ちゃんを抱いて笑顔であやす姿だった。
 これまで欲しいとは思わなかったけど、いいかもしんない。いやそんな理由で子ども作ったら子どもに申し訳ないかな。
 次の週末、幸太に話してみようかなと思うしのぶだった。

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