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第42話:モラトリアム

 ぶっこちゃんとの日々は時間がゆっくり流れているようだと、しのぶは感じていた。もしかしたら、本当にゆっくりなのかもしれない。昔そういう類の科学雑誌なのかオカルト雑誌なのかを読んだ記憶がある。元々のんびり性分のしのぶにとっては、こういう時間の過ごし方が心地良かった。色々と大変なことはあるが、自分はまだお世話に専念できる立場なのだから、働きながら時間に追われて慌ただしく介護もしなくっちゃという人よりは幸福だろうと思っている。
 以前テレビの討論番組で、仕事に注力したいのに親の介護があるから困っているという人たちと、仕事が介護の息抜きになっているという人たちが語り合っているのを見たが、しのぶは違和感を覚えた。
 介護が苦痛なのか?ということである。対象が、親なのか祖父母なのかで感じ方はかなり違うだろう。ぶっこちゃんの介護は、介護というよりはお世話という方がしのぶにはしっくりくる言い方なのだが、一緒にのんびりと過ごすイメージであり、嫌なことをせねばならないという感覚では決してない。がしかし、それが亡き父清一だったらどうだろうと想像してみる。想像してみて、苦笑いをした。
「無理かもしれんな」
 小さくつぶやいた。
 最近めっきり睡眠時間が長くなったぶっこちゃんだが、そういえば今日はまだ見ないなと思い、キッチンから出る。キッチンの引き戸を開くと斜め左に縁側が広がるのだが、そこにぶっこちゃんの姿があった。午前十時。縁側には磨りガラスの大きな戸があり、そこから眩しいくらいの日差しが差し込んで、座り込んで何やらしているぶっこちゃんをキラキラ照らしている。まるで、幼児が遊んでいるかのように、三角座りの片足を寝かせて、床にはカラフルなビニールのブロックが転がっている。
 しのぶが近付いていくと、ぶっこちゃんは首を上げてこちらを見る。
「なぁなぁなぁ、それ」
 ぶっこちゃんが指差す先に、ブロックが二つか三つ組み合わされている。
「それ、辛いって書いてあるわなぁ」
 しのぶには何のことか分からない。
 ぶっこちゃんはそのブロックを掴んで縦にしてしのぶに見せる。はたと、しのぶの顔が全面にほころんだ。
 組まれたブロックが、うまいこと「辛」という字に見えるのだ。
「ほんまや、辛いって書いてある」
 ぶっこちゃんは別段喜ぶでもなく、納得して既に視線は別のものに移っている。どうやらお次は壁に掛けてあるカレンダーが気になるようで、指を指す。
 しのぶはもう暫く「辛」の感動を味わいたかったのだが、今度は何だろうかと、ぶっこちゃんの視線を追う。
「今日は二日やろ、二日で休みやったら三日は尚休みやな」
 確かに今日は二日だが、ぶっこちゃんにとっては毎日休みではないかと思いながらも「せやな」などと相槌を打ってみる。
 もしかしたら、ぶっこちゃんは一人で何かを発見したり思い付いたりしたことを蓄えていて、ちゃんと覚えていて、やっとこさ来たしのぶを見つけて披露しているのかもしれない。
 となると、常に五感で感じるものに対して思考し、時に解き明かし、時にロジックを組み立ててフル稼働で脳を活性させているのかもしれない。考えすぎて、アウトプットされる時には他者の理解を超えるミラクル発言になるのかもしれず、それを世間では「ボケ」だの言われてしまうのではなかろうか。
 彼女は決して、人を笑わせようという目論見も無く、自慢してやるという意図も感じられない。ただ、インプットしたものから生成されたものをアウトプットする作業をこなしているようであった。
 こういうとき、しのぶはもっとぶっこちゃんの話を聞きたいと思う。
「次は?」
 催促して出てくるものでもない。ぶっこちゃんはきょとんとしている。
「えーと、あの子がやな」
 急に話し出すぶこちゃん。お、来たかと喜ぶしのぶ。ビニールのブロックを袋に片付け、ぶっこちゃんの正面にぺたっと座り込むと正面からの日差しを温かく感じた。
そうか、ぶっこちゃんはこの温かいのが気持ちよくてここに居たんだ。
「あのこて、どのこ?」
 しのぶはぶっこちゃんの両指先を掴んで左右に揺らしてみる。
「ほら、散髪屋の、えーと……まぁAさんとしとこうか」
「ぷっ」
 しのぶは吹き出した。
「Aさんな、Aさんがどないしたん?」
「どないしたて、どないもこないもやがな」
 わけがわからない。わからないが、今日も収穫があったとほくそ笑むしのぶだった。

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