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第24話:子ども好き

 毎日目標もなく楽しみもなく常に今を生きているぶっこちゃん。このように言ってしまえば夢も希望もなく生きる活力すら見失ってしまいそうではあるが、過去を悔やんだり未来を不安に思って悩んでいる私たちにとって、もしかしたら目指すべき境地のようにも思えてきたりするなと、しのぶはぶっこちゃんを観察しながら考えていた。
 無精者のぶっこちゃんが、今日は家の中を歩き回っている。
 認知症老人が歩き回ると言えばすぐに「徘徊」という言葉が浮かぶだろうが、今の彼女には朝から半時間も慣れた家を歩き回る明確な理由があった。
その表情は真剣であり、視線は次々に目的物をサーフィンし、そして頻繁に表情を変化させた。
 ぶっこちゃんの視線の先には数々の写真が所狭しと貼られており、そこには子どもたちが様々な表情で様々な情景ではしゃいでいる姿が映っていた。
 その、映っている表情を真似るかのように、子どもたちに共感するかのように、忙しく反応しながら一枚一枚を眺めているのである。
 南野家の各部屋には無数のそうした写真が貼ってある。子どもたちはぶっこちゃんの娘メイコの孫たち、つまりぶっこちゃんのひ孫である。
 普段表情を変えることもないぶっこちゃんだが、その理由は単純に別段何もないからである。
 それを平穏で良しとする人がいるならば無関心な平和バカだ。
 何も起こらない刺激のない日常は、短期的な一部を切り取ってみれば周囲にとっては面倒のない状況だが、確実に認知症を悪化させる。日々、様々な感情の変化があってこそ脳が活性されて人は生きている感覚を感じることができる。
 かといって意味もなくぶっこちゃんを怒らせたり問題を提起したり無理矢理パズルを解かせようなんて悪質な強行手段は幸福を生まないどころか互いに生活の質を低下させるのみであることは明らかなこと。生物の行動の原理から考えても、ポジティブな方向性で互いに豊かな日常を生みたい。そう考えて実行したのが家中子どもたちパラダイス計画であった。
 単純に、子どもたちの写真を家中のあちこちに貼りまくっただけであるが、これがなかなか良い結果をもたらしている。
 その前に、その子どもたちは近所に住んでいる。ならば毎日家に呼べば良いではないかという発想もあるだろう。だが、ここは人間関係の問題が色々とややこしい。
 もちろん、子どもたちが遊びに来たいというならばそれにこしたことはない。だがしかし、遠いのだ。ぶっこちゃんから考えたらひ孫。そしてしのぶから見てもいとこの子という存在。これまでがそう頻繁に会わない間柄から急にぶっこちゃんのために来いとは言いにくい。更には、しのぶ自身が子どもに対して苦手意識を持っていることもあり、より手軽に実行できる写真という形態を採用した。
 ぶっこちゃんはまず、朝起きると目についた写真に挨拶をしている。そしてしばらく、話しかけている。その後、家の中探検が始まる。
 仏間のガラス戸に貼ってある子どもの泣き顔を見て、ぶっこちゃんの顔がますます皺を増やし、手で写真を撫で始めた。
 しのぶはといえば、少し離れたソファでコーヒーを飲みながら観察する。
 ぶっこちゃんは次の写真に目を移す。
「はは、なんでそんな顔ばっかり」
 写真に語り始めた。
「そうか、同じ写真やもんなぁ」
 毎回同じ写真を見てそう思ったらしい。いや、毎回を覚えているんだろうか?さすがに毎日だと覚えているのだろうか。
 ずっと観察していると、ふいにぶっこちゃんがこちらを振り返り、目が合った。
 満面の笑みである。
「この寒いのにこの子裸や、時節のも着せなあかんで」
 きっと、こういうのが人間の本来の幸せちゃうやろか、と哲学してみるしのぶであった。

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