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第27話:婆孝行

  十二月に入り、寒くなってきた。寒さにめっぽう弱いしのぶは、ぶっこちゃんを真似るようにもこもこと着込んでいた。
 寒さに弱いのは春生まれのせいではないかと推論するが、若しくは「寒い」と「寂しい」が感情的に共通するのかもしれないなと思いながらガラス越しに外を見た。
 しのぶには幼少より母がいない。父もまた、多くの時間を赴任地で過ごした。故に祖父母と共に、時を過ごしてきた。
 祖父の満は丁度、人生において最も生き生きとした時期だった。地域の役やらなんちゃら委員やら、ボランティアなんかも口では「しゃあないのう」などと言いながら好き好んで請け負って感謝されることを素直に喜び満足するような都合の良い善人で、自己の活躍にふけっていた。
 しのぶは、祖母であるぶっこちゃんに育てられた。そのぶっこちゃんは今現在卒寿で、もうすぐ誕生日を迎える。
 しのぶはそのことをふいに思い出した。若い頃ならば誕生日はめでたいもので、お祝いなどを考えるイベントなのだが、九十をまわるとめでたい以上に時の経過を感じずにはいられない。
 常日頃しのぶは、ぶっこちゃんに幸福を感じてほしいと願っている。ぶっこちゃんの幸福とはつまり、人である。
 誰かや誰か、そして誰かが常に一緒にいてくれる日々を幸福と感じるのがぶっこちゃんであった。
 彼女の過去が、そうであったように。
 ぶっこちゃんは常に誰かを気にしている。つまり、どうも、かなり人が好きであるようなのた。
 以前、近所に住んでいた妹の一人が亡くなった際に我が家にも人が集まった。皆、普段はなかなか会わない連中である。その日のぶっこちゃんは楽しそうだった。
 何を話すでも良いのだ。訳がわからなくとも。会える、集うというだけで嬉しいらしい。
 そんな喜ぶぶっこちゃんを見て、しのぶも嬉しかった。
 しのぶの悩むところは、時間が迫っているということである。
 別段、病気というわけではないが、なにせ歳である。これから計画的に何かをして孝行するというわけにはなかなかいかない。今すぐでなければ意味が無い。
 今、めいっぱいの幸福を感じてもらわねば将来悔やむとしのぶは思った。いや、今現在既に悔やんでいる。若しくは、何をやったところで悔やむのかもしれないが。
 明日、ぶっこちゃんの大好きなひ孫たちが来ることになっている。ぶっこちゃんの娘であるメイコの孫たちである。ぶっこちゃんが喜ぶので、月に一度連れてきてくれている。
 ぶっこちゃんは、もっと近かったらと、いつも文句らしいものを言うが、家自体は結構近い。近ければ会えるというものではないのだが、なかなか会えないのを家が遠いせいだということにしたいのだろう。
 しのぶは恐らく、そのひ孫たちが頻繁に訪問したくなる環境を作らねばならないのかもしれないが、そうしたことはに関して苦手意識を持っている。
 子どもたちの親世代である若い夫婦たちは、自分たちの幸福を見つめて生きている。というか、自分たちの生活に必死なのだろう。
 恐らくは、子どもが生まれたら皆、そうなのだろう。
 老いる者は、置いてきぼりの風景が浮かぶ。
 若い夫婦にとってその風景は、知ってはいるが、まず見ない。敢えて見ない。
 田舎に残された老夫婦は、子どもを案じ、孫を思う。
 片方が先に逝き、残された片方は一人寂しさと暮らす。
 そして今、子育てに夢中になっている若夫婦もいつか、そうなっていくのかもしれない。
 若く強い時代は、周りに人が居て、弱ってきた頃に一人ぼっちになる。
 祖母に育てられたしのぶは、何故かそんなことをよく考えてしまう。自分が寂しいのが辛いから、誰かが寂しがっていることも辛くなる。
 自分が誰かと居て幸福の中にいたとしても、今頃ぶっこちゃんは……と考えずにはいられない。
 ふいに、後方に視線を感じて振り返ると、しのぶに負けじと着込んだぶっこちゃんがこちらをじっと見つめていた。
「ぶっこちゃん、おったん」
「あんな、いつもな、あんたごしに槇の木を眺めてるんやがな」
 一体なんのこっちゃと思いながらも、しのぶは心が温かくなるのを感じた。
 

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