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第54話:時間

 ある初夏の晴れた気持ちの良い週末。やはりぶっこちゃんの姿は縁側にあった。空調が無くても心地良くいられる季節はありがたい。扉を全開にして、足だけ外に放り出して、上機嫌である。その理由は幸太が隣に居るからだろうと、しのぶは少し妬いていた。
「大阪城誰が建てたか知ってる?」
 幸太の声が聞こえる。
 しのぶは、くし切りにしたりんごを二人に運んだ。二人の間に器を置くと、まず幸太がフォークで一切れ突き刺して、ぶっこちゃんに手渡した。
 それを見て少しふくれたしのぶに気付いたのか、幸太は2つ目のりんごをしのぶに差し出してくれたので機嫌を取り直してしのぶも腰を下ろした。
 ぶっこちゃんが、大きく顔を歪めながらりんごを咀嚼して、もごもごしながら話し始める。
「大工さんとか、そういう答えとちゃうんやろ」
「すごいな、そうきたか!」
 しのぶは思わず感心した。
「豊臣秀吉かぁ」
 ぶっこちゃんは、ちゃんと知っていますよと言わんばかりにそう言って2つ目のりんごをフィークで突き刺した。
 確か、今ある大阪城のモデルは徳川の城じゃなかったかなとしのぶは思ったが、言わなかった。隣で幸太はずっとニコニコ笑っている。
 恐らくは、会話の内容なんていうのはどうでもいいんだろうな。この、今の流れる空気が、とても大切だと感じた。
 ふいにぶっこちゃんが幸太の方に手を伸ばす。何を求めているのだと、少し訝しく思ってみたが、その手は人差し指で何かを指しているようで、幸太ごしのひ孫の写真が貼ってあるのに突き当たった。常に次の話題を見つけるぶっこちゃんはもしや私たちよりも頭はよく回転しているんじゃないだろうか。
「リズちゃんだっけ」
 写真を見た幸太が言う。
「この子はモカ。リズはこっちの写真」
 しのぶは答えるが、そんな話など聞かずにぶっこちゃんが喋り出す。
「あそこにちっちゃい子おるやんか」
「おるなぁ」
 幸太郎が答える前に、しのぶが返事する。
「なかなかおっきならいん」
 ぷっと、幸太と顔を見合わせて吹き出した。
「せやなぁ」
 しのぶは笑いながら答えるが、もちろんぶっこちゃんは真剣だった。
 ゆっくりと流れる、穏やかで心地良い時間。
 こういう時間が、いつまで続くんだろうか。いつまでも続かないことは分かっているし、それがそう長くはないことも分かっている。だけど、はっきりといつどうなるか分からないことに備えて何をどうすればいいのか分からない。しのぶはただ、この時間が長く続くように祈ることしかできない。そして、この大切な時間を、一秒たりとも忘れてしまわないように、心に留めておきたいと思っている。
 ぶっこちゃんは、ぽっちゃりしているものの、全体的に小さくなったように思う。
「痛いー」
 まどろみを遮ったのは、ぶっこちゃんの声だった。
 立ち上がろうとして、急に幸太の上に倒れ込んだ。
 しのぶは慌ててぶっこちゃんの肩を抱く。
「痛いんか?」
 どうやらどこかに痛みが走ったのか、ぶっこちゃんは顔をしかめている。幸太も心配そうに覗き込む。
「痛いわぁ」
 ぶっこちゃんは、そう言いながら膝を擦っている。
「膝か?」
 しのぶは覗き込んで、同じ箇所を擦ってやる。
 ふいと、ぶっこちゃんが泣きそうな顔を上げた。
「痛さ八十パーセント」
 いやそれは結構大変な痛さだろう。だがそれ以上にその表現に吹き出しそうになるのをぐっと、二人は堪えた。
 痛みという個人的な事象の伝え方としては、素晴らしい。ユーモアでもあるし、それ以上に知的センスに優れている。
 いや感心している場合ではなかった。しばらくそのまま、幸太の膝枕でぶっこちゃんは横になっていた。しのぶがぶっこちゃんの膝に湿布を貼ってやり
「痛いの痛いの飛んでいけ」と子どもに言うように撫でてやる。
 ぶっこちゃんはいたいのを我慢していたのかもしれないが、それ以降は何も言わずに目を閉じた。
 その頃からだったかもしれない、ぶっこちゃんが弱っていくのが顕著になりだした。
 体のどこかが痛いというのはそれだけで行動範囲が狭くなる。外出用に使用していた車いすを家の中でも使うようになり、トイレの失敗が増えたので紙オムツを使用し、しのぶでは入浴介助が難しくなり介護サービスに入ってもらうことになった。
 ぶっこちゃんと関わるというよりは、お世話の作業をするというニュアンスが強くなり、何をどうすれば作業が楽になるかということが日々の課題となっていった。
 そういえば、最近ぶっこちゃんの笑顔見たっけ。
オムツ交換を終えてぶっこちゃんを寝かし付けた夜、その寝顔を見てしのぶは思った。途端に、胸の中で何か圧迫するような感覚を覚えた。
 今が、もしかしたら一番大事な時なんじゃないだろうか。かといって、具体的に何をどうすれば良いのか。考えることを先延ばしにしていた自分を悔いた。でも、遅くない。遅くないはず。
 そわそわ、そわそわと胸に冷たい風が吹いていた。

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