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僕の半生Part.15 コロナ禍で全ての活動が止まった自分が選んだ「映像制作」という道

このnoteは、キノコ博士だった幼少時代の僕が、高校時代の他人も自分を信じられない闇を抱えて、20代のミュージシャンとしての活動を通して光をつかみ、フリーランスのビデオグラファーとして独立する現在に至るまでの半生を綴った「僕の半生」シリーズのPart.15です。
前回は、自分のバンド活動の中で映像を作ることに出会い、少しずつ生活が変わってったことをお話ししました。

誰にとってもそうであったように、僕にとっても2020年は激動の年でした。
コロナ禍でみなさんはどう変わりましたか?
僕はこれから書くような変化が起きました。

コロナ禍で全ての活動ができなくなった自分

時は2020年4月。コロナ禍の第一波が日本を襲っていました。
ライブハウス界隈は大混乱。
ほぼ全てのライブイベントは中止となり、当然僕も音楽活動はできなくなっていました。
また、当時僕はApple Japanで大好きな製品を販売する仕事をしていたのですが、これも店頭に立つことができなくなりました。
友人からポツポツと貰い始めていた映像の仕事も、バッタリと途絶えてしましました。
そう、コロナ禍によって、僕が好きだった活動が全てできなくなってしまったんです。
ずっとずっと家にいる日々が始まりました。

今年こそは花見ができるだろうか

膝の傷は努力の証

僕は昔から、何回も何回も転んでは膝を擦りむいてきた日々でした。
その度に、「タダでは転ばない」と言わんばかりに、何かを拾い上げて来ました。

コロナ禍で全てが止まった時も、ただ嘆いていても仕方がないと、新たに情熱を向けるものを見つけました。

それは、
「できた時間の全てを映像の勉強に充てる」
ということ。
これまで手探りで作っていた映像から脱却し、ちゃんと計画して作られた映像を生み出すために、ひたすら勉強をしました。

勉強なら家で一人でもできる。
道端や公園でカメラを回すくらいなら、外出したって問題ない。
そうやって毎日映像について勉強し、その成果をSNSで発信していました。

膝の傷の数だけ努力をして今まで成長してきたので、今回もただでは転ばないぞ、と必死でした。

↓同時自作していた映像の例

作ること、表現すること自体が好きだと気付かされた

少し時を遡りますが、2019年ごろに、僕は少しだけ自分に対して疑問を抱いていました。
それは、
「ドラマーじゃない自分になったら、どうなるのだろうか」
ということ。
僕は長年ドラマーとして活動して来たので、
「ドラマーでなければいけない」
と思い込んでいました。
ドラムが一番好きだし、自分を表現する方法はドラムしかない、と。
でも、shannonsでクラウドファンディングをしたりする中で、
「もしかしたらドラマー以外の自分も、存在するのではないか」
そんな疑問が浮かんでいたのです。

強制的にその答えを突きつけられたのがコロナ禍でした。
音楽から強制的に切り離された日々を送る中で映像制作に没頭し、ふと気づきました。

「僕は作ること、表現すること自体が好きなんだ」

「音楽」というものよりさらに上のレイヤーで、モノづくり自体が好きなのだと気付かされたのです。

映像制作も、
「映像が好きで、映像で仕事がしたい!」
と思って始めた訳ではありません。
前回の投稿でも書いた通り、カメラとの出会い、映像制作を始めたきっかけはむしろ偶然でした。

今映像制作で仕事をしているのも、映像自体が好きというよりもさらに上のレイヤーで、表現を作ること自体を、僕は楽しんでいるんです。

これは自分にとっての大きな指標になりました。
今後、いつまで映像制作で食っていけるのかはわかりません。
それでも自分は、
「表現し、作ること」
であれば楽しめるので、そこさえブレなければ幸せに暮らしていけるな、と。

舞い込み始めた映像の仕事

世の中が一旦落ち着き、経済が動き始めた2020年の夏頃。
人影が街に戻るのと同じような速度で、突然映像制作のご相談を多くいただけるようになりました。
強烈に覚えているのは、2020年9月に、映像制作の売上が会社から頂いているお給料を上回ったことです。

なぜこんなにも急にお仕事として映像ができるようになったのか、明確な理由はわかりません。
運もかなりあったと思います。
コロナ禍において映像制作の需要は格段に高まっていたので、たまたま時流に乗れたのが大きかったと思います。
そんな中で、毎日のように自分が自作した映像を発信していたので、
「あいつは映像作れるぞ」
という認識を持ってもらえていたのではないかと思います。

主な依頼は友人や過去の会社の同期、知り合いのミュージシャンなどで、MVやYouTubeチャンネル、商品のPVなどなどを行わせていただきました。

こうして映像制作の仕事が本格化していく中で、強烈に感じたことがあります。
「これまでの人生での出会いが、映像で花開いた」
ということです。

例えば僕は、新卒で入った会社を1年で辞めてしまいましたが、その時に出会った同期が今では仕事仲間になっていたり。
数回だけライブハウスで一緒になったバンドのMVを作らせてもらったり。

高校生の頃は人が嫌いで、自分のことばっかりに目を向けて20代を過ごして来た自分が、こんなにも人との出会いに助けられるなんて。

がむしゃらに走ってきた自分の人生が、「それはそれで結果になった」と思えたのは、映像制作を始めたからでした。
過去の自分を反省もしましたし、これからはもっと人の出会いを大切にしていこう。
そう思いました。

兼業という生き方は素晴らしい

この時はすでにAppleでの仕事も店頭に復帰し、Appleの仕事と映像の仕事という2本柱で生活をしていました。
正直、「兼業」「副業」という生き方は本当に良い選択だと思います。

自分の事業…僕の場合だと映像制作だったり音楽だったり…はどうしても収入は安定しません。
うまくいけば会社勤めの収入を大きく上回ることもありますが、ちょっと調子が悪いとバイト代にも届かなくなることだって、当然あります。

なので、収入の柱が二つ以上あるということは、精神衛生上もすごく良いと思います。
1本足で立つということはその1本が折れたら転ぶことを意味します。
2本あれば1本が折れても片足立ちできます。
理想は3本くらいあればいいな、と思います。
あとは音楽活動を再起させ、音楽/映像/会社の3本柱で生きてく。
この時はそんな未来絵図を描いていました。

ただ、この兼業も長くは続きませんでした。
コロナ禍の影は、第一波の急性的な影響だけでなく、じわじわと慢性的な影響を僕に及ぼしていたんです。

その話はまた明日。。。

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