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まわたのきもち 第15号

「言葉を思う」

「齢65歳を超えて、見えていないものが何か見えてきました」

 今年の春、学部生時代、大学院生時代を通して大変お世話になった日本語教育がご専門の先生から、そんなメールを頂戴した。35年間、日本語教育にただただひたむきに向き合われた先生であり、特に「日本語の語彙の習得過程」にご造詣が深い先生だった。僕は教育計画論を専攻していたので、同じ教育学とはいえ専門領域は全く違ったのだが、本当によく可愛がってもらい、毎週のように先生の研究室で色々な議論をさせてもらったものだった。

 その先生が、65歳で大学を退官されてから、中国で日本語教育の実践に取り組むというお知らせをくださったのだ。大学の教員を無事に定年退官されてから、なお向学心に燃え、海外に行き日本語教育の現場に立たれる。本当に、日本語教育とともに人生を歩まれるのだと思い、ただただ尊敬の念を覚えた。

 「自分の言葉で語りなさい」とは、この先生との議論の中で、まさに何十回も言われた言葉である。綺麗な言葉を使うならまだしも、綺麗ごとを並べて取り繕っている時に、よく言われたのを思い出す。「自分の言葉は、相手に伝わらなければ意味がない」という信念は、この先生に育んでもらった価値観でもある。

僕は、イデアの子どもたちが、「まとまりのある集団」であってほしいとも、「先生の言うことをよく聞く塾生」であってほしいとも思わないということは、以前このエッセイの何号かで書いた記憶もあるのだが、一方で、「自分の考えを主張できる力」や、「相手の主張を聞くことができる力」は備えていてほしいと心から願っている。面談時にも保護者の方には僕のスタンスとしてお伝えしているが、イデアでは、遊びにいちいち大人が関わらない。他の多くの学童保育所がそうしているように、大人が関わって、誘導して、遊びの時間を過ごすようなことはしない。遊びの時間は、子どもたちの自治の時間であると考え、「片付けをする」「勉強している子の邪魔をしない」「下の階やご近所に迷惑をかけるほどの騒音は出さない」などの最低限の決まりさえ守ってくれれば、遊ぶ内容は子どもたち自身が決め、自由に過ごしている。そしてそこで期待しているのも、「相手の主張と自分の主張のすり合わせ」ができる力が身についてくれることである。「自分の言葉で語る」こととは、相手の気持ちを思いやった上で自分の気持ちを他者に伝え、そして相手の言葉に耳を傾ける力であり、そのすり合わせこそが、なりたい自分を作っていくのだと信じている。

お陰様で短期利用のお子様も含め、子どもたちの人数も増えて、賑やかな夏休みになった。人数が増え、滞在時間も長くなるので、子ども同士の小さな揉め事は頻繁に起きる。学年が下であればあるほど、大人に助けを求めがちだが、僕は耳を傾けたうえで、「自分たちでお話しできない?」の問いかけを、決まって行っている。たとえ、今は自分の言葉を持っていなくても、人と関わっていくことで、自分の言葉はきっと生まれてくる。大人が強制的に用意し、大人たちが監視している見せかけだけの「子ども同士の話し合いの場」や、「大人の顔色を伺う毎日」からは、そんな自分の言葉は生まれてこない。自分の人生を生きるために、自分の言葉を持ってほしい、そう願ってやまない。

「孔子は、『人知らずして慍(いきどお)らず』と言っている。人に迎合し認められようとするのではなく、自分の信ずる道を歩み続けてくれるよう、応援しています」と、先生のメールは結ばれていた。孔子の論語を何度読んでも、僕にはまだまだその境地は見えてこない。ならば、昨年その年齢になってしまったが、同じく論語の、「四十にして惑わず」を実践できる人間になりたいと思う。

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