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知的変容型エンパスの苦悩

自分の書きたい文章を自由に書く場、「心の置き場」として、
せめてこの場を活用したい。

読み手の事を考える文章、伝えようとして書く文章が、
とても読みやすく、まとまっていて、需要がある事は分かっている。

でも、時には自分の心の中にある事を吐き出し、整理する為に、
この場を活用したいと思う。
だから今回は、文体も統一感も何も考えずに書くね。

エンパスという特性は、ある意味神様からお与え頂いている特殊能力。
物凄く役に立つ事もあるし、良い事に使えば素晴らしい力だと思う。
でも、その特性が凄くすごく自分を苦しめる事にもなるの。

HSPという言葉が大分メジャーになってきたから、
聞いた事がある人も増えてきたけれど、エンパスというと「何ソレ?」と言われてしまう事も多い。

明確な線引きはないのかもしれないし、
色んなタイプのエンパスやHSPが居て、自分以外のタイプの事をここで解説する事も出来るけど、
今回は、私の「心の置き場」として書くからゴメンね。
自分が当てはまっているものだけ書くね。

私はエンパス。
これは、スピリチュアルな要素が加わっているのと、
大きな特性として「知的変容型エンパス」を自覚しているから。

感情直感型エンパス

相手の何気ないしぐさ、表情、口調から敏感に感情を察知し、
読み取る能力。
更には、相手がどうして欲しいのか?どんな言葉をかけて欲しいのかさえ、
伝わってきてしまう。

感情一体型エンパス

周囲に居る人達の気持ちを敏感に察知して、自分の事のように感じて、苦しくなってしまう。
泣いている人が側に居たりすると、一番苦しい。
赤ちゃんが泣いていても、何故泣いているかの種類によっては物凄く苦しくなる。

精神直感型エンパス

目に見えないものについての共感能力。
いわゆる「神様の声を聴く」「自然の声を聴く」と言われるような事象。
これについては、良い事が多い。
HSPにはあまり見られない、スピリチュアルな部分。

知的変容型エンパス

恐らくこれが一番珍しく、エンパスの特性を持つ人の中でもレアケースだと思う。
同じ空間に居る人の思考が、自分の脳内に勝手にダウンロードされていくような感覚。
相手の思考プロセスを自分の事のように体感し、自分の持ち味を加え、
言語化まで出来てしまう能力。

私はこの能力が高く、基本的に何をやっても割とすぐに形になり、
「教えてないのに、どうして出来るの?」と言われてしまう事もある。

知的変容型エンパスとしての苦しみ

知的好奇心を刺激されるような人には、
自分から積極的に近づき、コンタクトレンズ着用で接し、自ら知的変容型エンパスを発動させる事がある。
何故なら、相手の思考や能力を自分のものにしたいと感じるから。
滅多にそう感じる事はないものの、そう感じた人から受け取った能力は、
その後もずっとずっと、私に継承されていく。

例え、相手が気付いていなくても…。
私が一度身につけた能力は、小さくなる事はあっても、
一生、消滅する事はない。

一応念の為。私が知的変容型エンパスとして繋がった相手の、
能力や思考が変異したり、減少したりする事は一切ない。
ただただ、その思考と能力の一部が継承される。それだけ。

※技術的なもの。ピアノや舞踊に関しては、日々訓練を積まない限りは、
ハッキリと衰えていくものの、「魂」のようなものは継承される。

私は眼鏡で自分を守っている部分が多々あり、
エンパスの力をセーブしたい時は、必ず目からの情報にワンクッションを置く。

知的変容型エンパスとしての自覚を持ち、
相手の思考が充分にダウンロードされ、相手の能力、思考、その裏にある隠された感情、そこまでなんとなく読み取った時、
人として最も大切なスキル「見て見ぬフリ」が困難な状況となり、
突然相手との距離を置く事がある。

※もしかしたらこれは、知的変容型エンパスというよりも、
テレパスに近い部分かもしれない。その能力が開花しないよう、セーブしている部分でもある。

ある意味、大変優秀な作戦参謀となるものの、
隠された本音の部分や、少々作為的・策略的な部分を感じ取った時や、
自分が「利用されているのではないか」と感じてしまった時などに、
急にエンパスの回路を切断し、同時に相手に対して興味も無くなる為、
長期的にかかわっていく為には、心底共感出来る人でないと信頼関係を築く事ができない。

人間、100%善人ではなく、多少は黒い部分もあったりするのは、
私自身も同じ事。
そんなの見たくないし、感じ取りたくない。

結局はこの能力を、あまり良い事には使えていないのが現状。
そして何より疲れる。

「今考えている事は、自分の考えではない!」
「この思考は、自分のものではない!」
「本当の私はこう思っているのに!」

私は割と自己主張が激しいタイプなので、
ある時、「自分」が暴れ出す。

自ら好んで知的変容型エンパスを発動させておいて、
「操られている」という感覚に陥る事がある。
そうなったら、私は瞬時にエンパスの回路を遮断し、
徹底的に自分と向き合うしかない。

特に、何かを集中して学ばなければいけない時などは、
情報過多となり、脳のキャパシティを超えてしまう事がある。

視覚野・言語野を休ませる必要性

これはエンパスとはまた違った特性になるのだが、
私は生まれつき、アーティスティックな一面があり、
脳のクリエイティビティが活性化しやすいタイプ。

これらを休む事無く、働かせすぎるとどうなるか?
過去に経験しているから、よくわかる。

かつて、作詞作曲を日常的に行い、
楽曲を量産していた頃、とても楽しく充実している感覚とは別に、
言いようのない不安・恐怖・孤独感に見舞われた。

何故なら、歌を量産し、人前で表現する事。=脚光を浴びる私。
これが全てではないからだ。

強く光が当たれば、その分影も強く感じるというもの。

まるで「虚像」が独り歩きする感覚を覚え、
「あれは私ではない!」と叫びたくなる日々だった。

今現在、私はその過ちを再びおかそうとしているのではないか。

確かに、あの頃よりも「精神の成長」を得た。
でも、blogやnote、そしてTwitterで「虚像」を独り歩きさせてはならない。

常に自分軸を大切に所持し、等身大でいること。ありのままでいること。
これらを、誰よりも大切にしなければいけないのだ。

私は文章を書く時も、ツイートの投稿をする時も、
特に苦労を感じる事はない。

・文章の神様を召喚して書く。
・文章が降りてくる。

その瞬間、この上ない高揚感を得られる。
同時に、それが「普通の状態」ではないという事も理解出来る。

日常的にアンテナを張り続けているからこそ、その現象が起こるのだ。
それ故の疲労感を、誰よりもよく知っている。

意図的にでも休ませないと、この状況が続くと危険。
視覚野・言語野を休ませなければいけない。

私が心の平穏を取り戻したのは、全てのクリエイティビティを閉じたから。
再び回路を開き、約1年半。
楽しくて、幸せで、どんどん書きたくなった。

上手く共存出来たらいいのにね。
でもきっと、今はその回路を閉じなければいけない時期。

何かに集中しなければいけない時、
何かを学びとる必要がある時、私はクリエイティビティと共存出来ない事を知っている。

脳の情報処理能力が追い付かなくなるから。

「書く力」を研ぎ澄ませる事=「見て見ぬフリをする」スキルが不足する

調和を大切にして生きていかなければいけない世の中、
私は今、全てのクリエイティビティの回路を閉じなければならない。

一旦、全てを閉じよう。
大丈夫だ。書けなくなる訳ではない。
またきっと、安心して回路を開ける時が来るから。

思うままに徒然に。心の置き場として書き記す。
構成めっちゃくだし、文字装飾も省略。
たまには、こんなのも良いでしょ。(笑)


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