金沢の文化香る県営住宅
犀川沿いで、犀星の石碑をいくつか見てきました。
犀星の道にある「小景異情その六」
犀星の育った雨宝院前にある「性に目覚める頃」
生まれたところにある「室生犀星生誕地跡」の碑
犀川沿いのほかには、どこにあるのかなあと記念館で購入した『室生犀星文学碑ガイドブック』を見ていると、その中に県営新神田団地があります。
しかも、建物に埋め込まれていて珍しいタイプです。
これは見に行かなきゃと、行ってみます。
中心市街地からJRの線路を横切ります。
新神田団地
公園から見えてきました。
こちらから見ると、スタンダードなマンションに見えます。
反対側の正面に回ると、モダンな雰囲気です。
建物の壁面に椿とあります。
室生犀星の自筆句集『遠野集』から、新神田県営住宅の9つの棟には、それぞれに樹木の名前が付けられました。
自筆句集からなので、この「椿」の文字も自筆文字です。
一回りして、樹木名チェックです。
ひとつ足りません。
さらに、肝心の俳句の碑が見つからず歩いていると、偶然知人と遭遇。驚きましたが、それは集会所にあるよと教えてくれました。
そこで探していた最後の樹木名の棟も見つかりました。
集会所の表にアートな陶壁があり、角に梅と椿の俳句が埋め込まれています。
そして、知人のおかげで集会所の中の句碑も拝めました。感謝です。
見にくいけれど、よく見ると
「杏あまさうな ・・・ 犀星」とあります。
これで全部回れた!と周りを見ると、集会所の隣は棟に囲まれた中庭になっています。
この彫刻は、篠原勝之さん、クマさん作だそうです。クマさんは、昭和53年(1978年)に金沢市の文学賞である泉鏡花賞を『骨風(こっぷう)』で受賞しています。
新神田の県営住宅ができたのは、昭和55〜56年(1980〜1981年)なので、もしかするとそのご縁かもしれません。
あらためて見ると、各建物も高さや幅、バルコニーのつき方、窓も違っています。
棟の角度も、平行ではなく、面白い造りです。敷地を最大限活かし、採光や風通しなど考えて造られたことが感じられました。
帰りに、道路脇の用水にお地蔵様があり、昔は水田地帯だったことがうかがえます。
しばらく経って、もしや他の県営住宅にも?と思えてきました。ガイドブックを見直すと、
新神田の県営住宅の前年に作られた諸江団地も載っています。
金沢駅方面から諸江団地へ向かう途中にも、石碑が載っていたので寄ってみました。
でも、工事中で残念ながら石碑の行方は分からずでした。
工事現場のパーテーションのクマさんの窓がかわいかったのと、不思議なクマさんつながりということでよしとして、本命の諸江団地へ。
諸江団地
諸江団地は、ショッピングセンター、アルプラザの横にあります。
どことなくNYのブルックリンを思わせる階段の連なる建物です。
諸江団地には、犀星の『抒情小曲集』から「木の芽」の詩碑が置かれています。
さらに、新神田と同じように各棟にこの詩の中から7文字を7棟につけています。
回ってみましょう。
まずは、木です。文字は、新神田の犀星自筆のものと似ていると思ったら、『遠野集』から集めてきた同じ自筆文字でした。
ここを抜けるとすぐに、石碑が見つかりました。
他の棟の文字を続けて探します。
これで、ひと回りできました。雀の棟の前は、中庭です。
下を見ると、タイルで周りにある棟の名前が置かれていました。
2階から見ると、向かいにあるショッピングセンターのアルプラザが見えます。
横を見て、住宅街がある思っていると、あれ?建物や窓の高さが微妙に違います。
画一的に作られたものでないことが分かります。
反対側には、公園と集会所もあります。
ここも、おもしろい建物でした。
県営住宅のコンセプトは?
この頃の県営住宅のコンセプトが気になってきました。
本を見てみると、県営諸江団地の設計思想には、大きく4つのコンセプトがあります。
自然風土・文化風土との融合
地域との融合
多様性と個性の回復
社会的耐用年数の延伸
建てられたのは昭和54〜55年(1979〜1980年)です。このコンセプトで、翌年に新神田の県営住宅も建てられています。
石川県の県営住宅は、戦後、引揚者による人口増加に伴う住宅不足解消のためにつくられ始めました。
金沢市の人口を見ると、
昭和21年(1946年) 203,020
昭和24年(1949年) 240,425
4万人ほど増えています。3年で人口が2割増です。
※県営住宅は県全域ですが、金沢市のものに絞って見ます。
当初は、兵舎など軍の施設を転用、その後、木造住宅が作られます。
そして、昭和24年(1949年)には金沢市本多町に石川県初の鉄筋コンクリート県営住宅が作られました。
当時の入居倍率は、24.6%とかなり高くなっています。現在の東京にも迫る高倍率です。
その頃が第一次県営住宅建設ラッシュとすると、第二次がこの諸江や新神田の県営住宅の昭和50年半代半ば(1980年前後)です。
今残っている金沢市内にある県営住宅のうち約半数がこの時期に建てられています。
全国的には、昭和46年(1971年)に住宅ストックが満たされました。
それからオイルショックが来て、高度経済成長期が終わり、量を追い求める時代が終わります。
ライフスタイルも変化し、住宅環境、レクリエーション、多様性、長期的なQOLが重視されるようになります。
そういう時期に、これらの県営住宅が建てられています。
量より質なのに、なぜたくさん建てられたのかは、1970年代前半のベビーブームが住宅需要を押し上げたためです。
質を求めて、具体的に設計思想のコンセプトが現れているのは
雨の多い自然風土に合わせたサンルーム
文化風土、多様性や個性の回復として、金沢の三文豪のひとり犀星の詩を反映させた各棟と石碑
地域と融和するよう住宅街の高さに合わせた3階建て
コミュニティスペースとしての中庭や集会所
住宅耐用年数を考えて、分割や増室の可能性を残したメゾネットタイプの住居
現在からすると、階段はバリアフリーじゃない、高層のほうが土地が有効に活用できるのではという見方もできるかもしれません。
でも、当時としては本気で新しいライフスタイルを目指した住宅だと個人的に思いました。
金沢市内まだまだおもしろい建築が隠れています。
参考
「石川県の建築史ー礎ー」
「住宅建設十年 1955」
金沢市ホームページ 人口・世帯数
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/chosatokeishitsu/gyomuannai/1/3/2/7841.html
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