見出し画像

友とその周辺のこと。

友人に手紙を書きながら思い出す。

結婚して間もない頃、佐賀に遊びに来てくれた
別のグループの友人に
「佐賀で友達作らんばね!」と言われた。

「遠くの親戚より近くの他人」
みたいなニュアンスだったんだと思うし
私が寂しくならないようにと、言ってくれたんだと思う。

でも、正直、そう言われた事の方が寂しかったし
長崎の友人たちに、頼ったりしちゃいけないのかなぁって
思ってしまった。

結婚したら、引っ越したら、距離だけでなく
存在も心も、遠くなるのかなって。

ご近所さんとか、ママ友とか、その時々で
仲良くさせてもらったり、頼ったりできて、助けられたけれど
真の私のままで居られる友達が出来たのは、この数年のこと。

居心地の良さとか、安心って、そういう存在が
源なんだよなって改めて実感している。

今は、スマホを介して、遠くに居たとしも
繋がりを感じられたり、その存在に救われたりして
会わなくても、会えなくても
心の繋がりを感じられていたら、それで充分だったり。


友達に求めるものって、人によっても
タイミングによっても異なると思う。

その友人にしてみれば
長崎から佐賀への100kmが、遠く感じて
そして、誰かの妻になって、母になっていく私のことも
遠く感じたのかもしれない。
追いつけない。
相談されても、応えられない。

似たような場面が、その後、私にもあった気がする。
未知の経験を相談されたとしても
確かに、応えられないし
受け止めきれなくて
その人が求める友達に成り得ないことを
突きつけられたり、出来ない自分のことも
受け入れられなかった。

互いに求める友達像のギャップが
大きくなれば、居心地は悪くなる一方。

そうなると、逃げたくなる時だってあるだろうし
離れていってしまうことも。

友達という契約に、正しい終わらせ方があるのか?
これは、永遠の問いでもある。

この間、数十年ぶりに会った、別の友人と話したり
やりとりしながら、互いに重ねてきた年月を越えて
何の隔たりもなく、話せる距離感と
その再会を有難く思っている。

例えば、最後に会った時の印象が、悪かったとしても
会えなかった間に、それぞれに、いろんな経験をして
その印象も、変化したり、忘れたり
取るに足らないことになって。

自身の中でだけの視点と感情で
判断してしまっていた過去のことも
誰かとの関わりの中で、相手の視点に気付かされたり
その印象も位置付けも変化するんだよなぁって。


相手の立場で考えてみることは出来ても
結局は、経験しないと分からないし
100%理解することは、難しい。

それでも、その難しさを越えて
寄り添って居たいとか、見守っていたいとか
その思いだけで、充分な時もあるんだよね。

相手がそれを望んでいたか?も分からないけれど
それが出来なかった自分のことを受け止めて
許せたらいいなと思うし(自分勝手だと言われても仕方ない)
今、それが出来る存在が居るのなら
相手が変わったとしても
出来る形で、返していけたらいいなと思うんだよなぁ。

義務感では無く。
自然に。
そうしたいという自分の気持ちに従って。

無理することは、したくない、させたくないのが
私が大切にしたいスタンスなんだろうな。

満ちていく月とともに、今日も。
ありのまま。
そのまま。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?