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小声コラム#35 『明日のたりないふたり』


本当に好きだと信じていることほど、人に教えたくなかったり、うまく言葉にできなったりします。秘めておきたい好きなモノ・コトって、誰しも1つや2つはあって、ただ、本当に好きだからこそ誰かに(あるいは自分に)伝えて分かち合いたいとも思う矛盾があるのではないかと思います。
けれどやっぱり、伝えたくて言葉を探して文章にしようとすると、心や感情の色や形や温度とは程遠くて、言葉にするのが勿体ないと感じることが多い。それどころか、文章を書くことの不自由さや技量のなさに落胆を感じることもしばしばです。
それでも、タイトルの通り『明日のたりないふたり』については、書きたい、伝えたい、共有したいと、胸の奥が落ち着きませんでした。言葉にできない(したくない気もする)ようなライブだったし、言語化が難しいのはわかっているので、気負わずゆっくり書こうと思います。

*アーカイブ配信は終了していますが、以下ネタバレを含むので留意ください


『明日のたりないふたり』

たりないふたりとは何か

(概要的なことはGoogleで検索してもらうのがよいと思います。)
オードリー 若林正恭と南海キャンディーズ 山里亮太の漫才ユニット。12年前に結成され、北沢タウンホールでのライブから始まり”たりないふたり"というテレビ番組を放送。その後も番組の続編や、ライブが不定期に行われていました。

いや、そんなwikipediaを書きたいのではない。
僕が思う"たりないふたり"は「打たれ弱い鉄砲玉」みたいな感じだ。
若林さんも山里さんも、たりないふたりを支持している人たちも、たぶん、キラキラしてないし強くない。そんな一人ひとりだと思う。世の中を真っ直ぐ見られない、誰かと一緒なのが耐えられない、けど認められたい、でも動けない。動き方がわからない。そんなひとりじゃないかなと思っています。
抱えたモノをなかなか放出できない人たちが多いなか、たりないふたりは、同じようなもの抱えて、足ガックガクで突っ込んでは、いつも砕け散る。そんなふたりだ。突っ込んで倒れて、そのたびに反省して、また立ち上がって突っ込んでを繰り返すふたりだ。似たような弱さを武器に変えて、まったく、一体に何に立ち向かっているのかわからないけど、突っ込んでいくその姿に、安心して笑ってしまう。なぜなら、突っ込むときの目は何時だって、獲てやろうぜ!って目をしているから。本気じゃないと人は笑えない。僕たちは(勝手にまとめてすみません)きっと、たりないふたりがぶつかって落とした破片を辿って進んでいる。

魂と笑いをごちゃ混ぜにしなきゃ生きられない

一流の芸能人、大企業の社長など、いわゆる成功者と呼ばれる一部の人たちにしか、自分語りというか、内面的な話をすることが許されない風潮がある。(そう感じているだけかもしれないけど。)わりと真剣な場でさえ、自分のことを話しても、「誰でもないお前が何を抱えてるとかどーでもいいわ」「いい歳こいてイタいなぁ」って思われるんじゃないかって感じてしまい、けっこう怖い。もうそうなってくると、自分を発散させる術が本当にない。
だから、信じる何かに変換するしかない。弱くてもデカい塊を抱えたふたりは、芸に込めて笑いに変えた。見て聞いてもらうために、エンターテイメントを創り上げてきたのだろう。
その姿をずっと見てきたはずなのに、明日のたりないふたりでの漫才は、その混沌とした巨大な熱さを孕み、完全にやられてしまった。12年間の成長や変化を、これで最後というリミットを前に、今できる至高の漫才にするのは、どれほどの重圧だったのか計り知れない。それでも笑って舞台に立って楽しそうに漫才をするふたりは、やっぱり笑えた。
そしてそれは、これまでのたりないふたり、今のたりないふたり、これからのたりないふたりが、全部つまった漫才だった。"最後"ってことに対する答えもちゃんと抱えて、まっすぐ山ちゃんに、若ちゃんに、たりないみんなに突っ込む姿を見られた。
自虐の竹槍を投げ捨てたあたりから、さすがに笑えなくなってきて、焼けるみたいな感情だったけれど、たぶん限りなく笑いの側にある感情だったと思う。笑いに魂をグチャグチャに混ぜ込んだ漫才は、ほんとうに人間そのものだった。

たりないふたりが出した答えは"明日"

傍から見れば、ふたりともテレビで見ない日はないくらい活躍されていて、結婚もされて(山ちゃんは蒼井優さんだし)、全くもって"たりてる"ように映る。でも、若林さんが漫才で言っていたように、たりてるといえば何かに否定される。"たりない"と"たりてる"に狭間があるなんて、ふたりはきっと思ってもみなかっただろうし、これまで同様にいかず、身動き取りづらくなって窮屈だったんだろうなと思う。
たりないと銘打ったふたりが、たりないってなんだ?という疑問を突きつけられたのだろう。たりないふたり春夏秋冬で、山里さんが「たりないふたりの危機かもしれないよ」って話されていた。進もうにも進めない、引こうにも引けない。けれど、答えなくてはいけない問題に気づいてしまったんだと思った。
ふたりの根本にある人間の部分に向き合って、なおかつ芸として提供する責務がのしかかった最後のたりないふたり。そういった背景があって出した答え。

「ずっと、たりないんだね。知っときたかったな12年前に。」
「あぁ、たりなくてよかった。」

そっか、この人たちは本気も本気で、"たりてるふたり"になりたかったんだなぁって思った。だから、僕たちは滑稽って意味じゃなく(いや、滑稽だったのかもなぁ)、熱くジタバタする人間模様に笑えてたんだと気づいた。
そして今回、たりないことをふたりで受け止めて、たりないことで見られた景色に感謝を伝えた。
それはすなわち、たりない人たちを全面的に肯定することだったように思う。俺たちはたりないって吠えることも、たりてるって胡座をかくことも、なんか似合わなくなったけど、それでも俺たちは、たりなかったからここまでこれて、たりないままだからみんなに出会えたことを誇りに思うよ、これからもたりないままだけど、あとはみんなに任せるわ。
そんな漫才を通して、あの日のたりない観客は明日を受け取ったのだと思う。
たりないふたりが残した"明日"は、今日もたりない僕らそのものだった。


おまけ

なかなか書けなくて、ライブからもう1ヵ月くらい経ってしまっていました。長々と書いたけれど、結局なにを書きたかったのかよくわからない!ってことはよくあることで、都度反省するものの上手くできないときばかりです。
もらったと感じたモノを、自分だけに留めることなく誰かにも届けたかった、なんて聞こえは良いですが、思えばこれはただのエゴですね。価値があると信じることって難しいな。
でもまあ、エゴでも誰かに心にほんの少しの蓄えにでもなれたら、こんな幸せなことってないよな。って信じて書いてけたらなって思います。


#35 『明日のたりないふたり』

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