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「好きじゃない」×「意味はある」

ここ数日、SNSのタイムラインを賑わせた国連の温暖化対策サミット。中でもスピーチをしたグレタさんに対しては普段政治的な話題とは無縁な人も一言物申したりしている。

その内容は、よくぞ言った、というポジティブなものと、大人に利用されている、などのネガティブなものが入り交じる。賛否両論とはまさに、だ。

私は、といえば、相手を罵るような彼女の語気の強さが好きじゃない。また先進国に生まれていながら、そこに罪の意識がないのもすごく嫌だ。自分は便利な暮らしを享受しながら、それを捨て去ることもせず、なんてことをしているんだ、と相手を責めるその論調に嫌悪感を感じる。一方で、怒りに満ちたスピーチだったから、ただ相手を責める物言いだったから、環境問題が世界中の人々の注目を浴びた。そう、このスピーチには意味がある。

この数日、このニュースにふれるたびに、嫌だなあという気持ちと、ただ彼女が伝えたいことは、普通にスピーチしていたら届かない相手にも届いているなあ、と、感嘆する気持ちが入り混じった。

奇しくも、同じようなことを、今年は何度も感じている。

上野千鶴子さんの東大入学式式辞でのスピーチ。おめでたい場で冷水をかぶせるような物言いに私は嫌悪感を持ったのだけど、あれくらい言わなきゃ話題になることもなかっただろう。#Kutooや#No Bag For Me。ハイヒールにも生理用品にも特に課題を感じない私にとっては、主語が「女性」で、しかもそれが慣習ではなくフェミニズムの文脈で語られることにものすごい違和感だったけど、困っている人たちが一致団結して立ち向かうキッカケになった。

自分の「好きじゃない」認めるのはなかなか難儀なことだ。ついついアラを探し否定したくなってしまう。ただ「好きじゃない」×「意味がある」を認めることは自分を守るためでもある。誰かの「好きじゃない」をぶつけられた時に、まあそういう考えもあるよね、と一歩ひいて考える。そのためにはまず自分が世の中にある「好きじゃない」×「意味がある」を認める必要がある。

そう、目下子育て中の私は、誰かの「好きじゃない」を体現中。スマホ育児や親がリフレッシュするための託児利用、病気の子の看病は原則病児シッターさんにお願いする。子を夜の居酒屋につれていくし、飛行機での長距離移動も辞さない。

誰かの「好きじゃない」であることは承知のうえ。ただそれらは私にとって意味がある。





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