見出し画像

「分かりたいのに分からない」を知る読書

読書を何のためにするか、というと、現実世界からの逃避であったり娯楽であったり、そして何よりも新しい知見や世界を得るため、といったところが大半だと思うのだけど、このたび、「分かりたいのに分からない」を知る、そんな読書体験があった。三木清の「人生論ノート」を読んだときのことだ。

三木清「人生論ノート」は1938年~1941年にかけて「文學界」に連載されたエッセイがまとめられたもの。戦後に大ベストセラーになり、NHK番組「100分de名著」でも取り上げられた。


「幸せとは何か」「怒りとは何か」といった、誰もが知る感情や概念について、筆者の考えがとても簡潔にまとまっているのだけど、まあこれがよく分からない。

作者は日本で生まれ育った日本人。使われている言葉も一般的な読者を想定しているから、そこまで難しくはない。それなのに、よく分からないから、最初は読みながら面食らってしまった。
戦中時代の検閲を恐れ、哲学用語を用いわざと難しく書いたのでは、が、哲学者岸見一郎さんの見解ではあるのだけど、私の分からなさは、何も哲学用語のせいじゃない、そう思った。

「成功について」
今日の倫理学のほとんどすべてにおいて置き忘れられた二つの最も著しいものは、幸福と成功というものである。しかもそれは相反する意味においてそのようにになっているのである。即ち幸福はもはや現代的なものでない故に。そして成功はあまりに現代的なものである故に。
 古代人や中世的人間のモラルのうちには、我々の意味における成功というものはどこにも存しないように思う。彼らのモラルの中心は幸福であったのに反して、現代人のそれは成功であるといってよいであろう。成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはや人々の深い関心でなくなった。
三木清「人生論ノート」

どの章も、冒頭は理解がしやすい。たとえばこの「成功について」で述べられている、現代人は「幸福」=「成功」と捉えがちというのは心当たりがある。たとえばTVドラマや映画で主演するような俳優は、役に恵まれないだろう俳優に比べて幸福だろう、と考えることは特に不自然ではなく、安定した収入のある人とそうじゃない人を比べた場合、収入が多い人の方が幸福なように、何となく思ってしまう。

成功のモラルが近代に特徴的なものであることは、進歩の観念が近代に特徴的なものであるのに似ているであろう。実は両者の間に密接な関係があるのである。近代啓蒙主義の倫理における幸福論は幸福のモラルから成功のモラルへの推移を可能にした。成功というものは、進歩の観念と同じく、直線的な向上として考えられる。しかるに幸福には、本来、進歩というものはない。

中庸は一つの主要な徳であるのみでなく、むしろあらゆる徳の根本的な形であると考えられてきた。この観点を破ったところに成功のモラルの近代的な新しさがある。
成功のモラルはおよそ非宗教的なものであり、近代の非宗教的な精神に相応している。

成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。
三木清「人生論ノート」

成功と進歩が近代に入ってからより重んじられた概念というのも、産業革命以降の世界史を頭に浮かべるとまあ分かる。そして成功と幸福を同一視すること、不幸を不成功のせいだと考えることへの警笛。この部分に何故だろう、ととても興味を持った。

ただこの先、論が進むにつれて、作者の考えにたどり着くまでの道のりが険しくなる。たとえば「成功を冒険の見地から理解するのか、冒険を成功の見地から理解するかは、本質的に違ったことだ」という文が出てくるのだけど、その差異を自分ではうまく具体例に落とし込めなかった。「成功」と「幸福」が同一視されがちなことに対する作者の問題意識には興味があるのに、肝心の部分にたどり着けない。是非筆者の考えを分かりたい。にも拘わらず、分かるのは「分かりたいのに分からない」ことなのだ。

もちろん今までにも「分からない」を感じる本に何度も出会ったことがある。ただそれらは専門知識や前提が共有できていなかったり、あまり興味がない分野だったり、分からない原因に明確な心当たりがあった。ところがこの本が取り扱っているのは、「成功」や「幸福」といった、日常慣れ親しんでいる概念。更に筆者の考えている「自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。」の理由を切に知りたいと思っているにも関わらず。

「成功」とは何だろう?辞書をひくと「物事を目的どおりに成し遂げること。物事をうまく成し遂げて、社会的地位や名声などを得ること。」とある。自分が「成功」という時、前者の意味で使っているのか後者の意味で使っているのか。そしてこの文章がすっと頭に入らないのは、厳密にそれがいったい何なのかを今まで考えたことがないからでは、ということに気が付く。

「人生論ノート」を読むと、ずいぶんと自分がぼんやりした世界に生きていることを知る。そしてどうやらそれよりずっと解像度が高い三木清の目で世界を見てみたいと切に思う。

「分かりたいのに分からない」という切なる思いは、分かるようになりたいからもっと深く考えたい、世の中を知りたい、そんな思いを募らせる。そして、分かるために、更なる読書へと誘う。
きっとそうやって人は少しづつ賢くなる。「分かりたいのに分からない」は分かるようになるためのスタートでもある。

読書にはそんな効用もある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?