19/100 セネカ著「生の短さについて」/変わり変わらぬ自分との対峙

先日、子が思いのほか早く寝た。時は花金、明日は休日。そこで「アマデウス」という、モーツァルトとモーツァルトの同時期に生きたサリエリの映画を観ることにした。アカデミー賞8部門受賞の3時間を超える大作。こんな機会でもなければ観きれない。

ストーリーといえば、天才と名を轟かしたモーツァルトの決して順調ではない軌跡と、作曲家としては凡庸だったサリエリが同時期に活躍したモーツァルトを妬み羨む様子が描かれている。

この映画を最初にみたのが大学生の時だ。破天荒なモーツァルトをさすが天才、と思い、嫌がらせに講じるサリエリを軽蔑した。ところが今回の感想としては嫉妬心にさいなまされたサリエリに同情心を持ち、せっかくの才能をきちんと生かしていないモーツァルトに冷ややかな思いを感じた。

あまりに以前みた時と自分の感想が違うものだから、見終えて少し戸惑った。ただ理由は分かる。大学生の私は、サリエリの卑小さが自分の中にあるのを認められなかった。逆に今は、自分も時には嫉妬すること、その感情と付き合うのは骨が折れることを当たり前だと受け止め、サリエリのように嫌がらせに講じる心情もわからなくはない、となった。
多感な時期にコンテンツに触れる効用はまさにこれ。そして歳を重ねる楽しみも、この体験に集約されるかもしれない。サリエリを心に飼える余裕を持てたこと、これは私自身がちゃんと成長しているし、そして生きやすくなっているなあと実感するリトマス試験紙になった。

一方で変わらない感性がある。高校生だった私はセネカのこの思想にとても影響を受けた。

「道理にかなったものの見方をすれば、生きることは死に向かう旅にすぎず、人は生まれたその瞬間から、日々、死にむかってゆくものだ」というのがセネカの考え方だった。
セネカ/ジェイムズ・ロム著「2000年前からローマの哲人は知っていた 死ぬ時に後悔しない方法」

生きることとは死に向かっていくこと。生きている以上いつ死んでもおかしくない、というこの発想は当時の私にとって衝撃で、それ以来ずっと私の中にある。
今回とあるきっかけで久しぶりに読み返し、ここ数年私がキャッチフレーズにしている「未来のために今を犠牲にしない」という言葉はここからきているんだなあとルーツを再発見した思い。20年以上前の高校生だった私からそこは今にいたるまでブレてなくて、それはそれで少し嬉しいと思う。

はるか昔の自分と、コンテンツを通じてシンクロする、そんな心持ち。





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