私のせいじゃない。
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Perch.のお手紙 #118
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夏の間の思い出の一つは、スタッフ全員と1on1をしたこと。
ただ1on1するんじゃきっとスタッフたちもつまらないだろうからと思い「鮨1on1」と名付けて、それぞれとお鮨を食べに行っていろんなおしゃべりをしました。
お鮨が食べられるって思ったら、わくわくするよね、と思って。
ある1on1で「最近イライラしちゃって、やりたいことはたくさんあるのに、中々進まなくって。」という話をしてくれたスタッフがいました。
それに対して私は「最近、私のせいじゃない、っていう風に考える様にしているんです。」と話すと、彼女は一瞬ぎょっとした顔をこちらに向けました。
お天気が悪い日が続いて、忙しかった今週、また別のスタッフが「今日はやりたいことはたくさんあるんだけれど、思う様に身体が動かなくて、あまりよくできませんでした。」というスタッフにも、「それ、私は最近私のせいじゃない、って考える様にしているんです。」。彼女も「えっ?!」という表情になりました。
「私のせいじゃない。」っていう発言って、大人が言うのはちょっと憚られる言葉なんだろうな、と改めて思いました。
お天気が悪い日は、気圧の影響があって、忙しい週で疲れも溜まっているのだから、思う様に動けないのは当然、というか、私自身に由来する様な、私の問題と深く関連する様なことじゃない。気圧との相性が悪い日は必ずあるのだから、それを自分の問題だとあまりに引き寄せて悩んだり落ち込んだりするよりは、「はいはい、これは多分気圧のせいですよね、私が悪いわけじゃないんだから、お天気はいずれよくなるんだから、そこで悩む必要はないよね。」と考えます。
例えば、私は今独身で子供を持っていません。疲れ過ぎて真夜中に散らかった1人の家に帰ったりすると、ふと「なんで私は誰にも選ばれずにこんなに孤独なんだろう。」と落ち込んだりすることがありました。
けれども、それは結婚をすることや、家族を持つことを、多くの人や社会がよい、もしくは当然とする価値観の中に暮らしているから感じてしまうことで、別に私は誰に選ばれる必要もないし、落ち込む必要もないのだと思います。
私が孤独を感じるのは、私自身の問題とは関係なく、そう思ってしまう様な価値観の社会の中に暮らしているからなのかもしれない。
価値観は空気みたいに透明で、それが確固としてそこにあることを忘れてしまうのだけれども、時折「私のせいで」という形でにょきっと姿を現すものなのかもしれません。
そういう視点を持ってから、心の中にわき起こる悲しさや、悩みや、葛藤は、果たして本当に私自身に起因しているのだろうか、それは私が本当に取り組むべき、改善するべき問題なのだろうか、と考える様になりました。
考えることに使える時間は限られています。
「私のせいじゃない。」という問題は置いておいて、「私は私のせい」のことだけを考えたいな、と思う。
あなたのせいじゃないことが、きっとたくさんあるんだと思う。