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大切なものほど言葉にできないのはなぜか。

前回のnoteでもお話しした通り、わたしは安室ちゃんが大好き。

20年以上一度も浮気しなかったし、人気に陰りが出ていた頃もずっと支え続けていた(と勝手に思っている)し、見た目だけではなくて生き方そのものをお手本と思ってリスペクトしているし、本当は「好き」とかそんな程度の言葉で表しきれるような思いではない。

思えばわたしは昔から「自分の思い」を大切にしている。

やらなきゃ、行かなきゃ、という義務感で行動するのはとても苦手。せっかくやったのに、とか、行ってあげたのに、って恩着せがましく言われたくないし言いたくないから。

やりたいと思えばやるし、行きたいと思えば行く。シンプルにただそれだけで行動できるのがベストだし、だいたいいつもそうしている。

わたしは「思い」を軸に動いているのだ。

だからなのか、ひとより「思い」が強くなりがちだとも感じている。

そしてその「思い」が強くなればなるほど、そのことが大切になりすぎてしまって言葉にできなくなってしまう。

本当は自分にとって大切なもの、大好きな人、大事にしていることって人に伝えたいし聞いてほしい欲でいつもいっぱい。

なのに、どうして言葉にできなくなってしまうのか。

「大切」すぎる故、かっこよく伝えたくなる

まず思いつくのは、かっこつけたくなってしまうということ。

どれだけ大切なのか、どれだけ大事にしているのかを薄っぺらい言葉で語りたくなくて、大して語彙力があるわけでもないのにかっこいい言葉を並べたくなってしまう。

自分のスキルでは到底できないレベルの語りを生み出そうとしてしまうから、結局何も言えなくなってしまう。

多分そんな取り繕った言葉を並べるより、素直に出てくる言葉、それこそ「思い」を紡いでいくほうが、きっとずっと人に伝わるんだろうなって頭では分かっていながら…

「大切」だからこそ、自分の言葉に責任を感じてしまう

大切にしていることや大事な人のことを誰かに伝える時、「なるほど!それは素晴らしいね!」と思ってもらえるか、「ふーん、その程度のことか」と思われるかは、わたしの話し方にかかっているのだろうと気負ってしまう。

例えば、セールスマンにもいるでしょう、同じ商品のセールスなのに買いたいと思わせる人と、早く話終わらないかなと思わせる人。

その「もの」の魅力を伝えるには、「もの」に対して愛があるのはもちろん、やっぱり話す人のスキルにもかかっていると思う。

大切にしているものや人だからこそ、悪い評価をされたくない、と思い過ぎてしまう。

でもこれも、どんなにやり手のセールスマンだって100発100中でご成約!なんてあり得ないし、誰もわたしに責任持って話してくださいなんて言ってない。と、わかってはいるのだけど…

「大切」にしていれば、言葉にする必要なんてない

それを言っちゃ、おしまいなんだけどね。

わたしは、記憶にある限りの子供時代から言い訳をしないようにしている。

単純に言い訳がカッコ悪く感じるからなんだけど、そもそも「思い」を軸に動いているから、言い訳するような事態もほとんどない。

また安室ちゃんの話になってしまうけれど、安室ちゃんも言い訳をしない。すごく共感を持てるところ。

言い訳に限らず、多くを語らない、背中で見せるタイプ。

ファンに対しても絶対に媚びない、わたしに興味があるならついてきてね!というスタンス。

多くを語らない安室ちゃんの背中をただひたすらに追いかけていたわたし。

そこに言葉なんて特に必要ないし、言葉にすることでずっと大切にしてきた世界観が壊れてしまうような気持ちまで生まれたりする。

無理して言葉にする必要はないよね。

ひとまず、ただ素直になることから始めよう

今回も安室ちゃんに傾きすぎたけれど、それ以外にも家族や友達だったり、思考や価値観、感覚とか、何でも、人に伝えたいなら、まずは自分の思いを素直に言う、そこから始めてみよう。

好きなものを好きと言う、大事なものを大事だと言う、大切にしていることを大切なことだと言う、それから誰かの「素敵だな」と思ったところは「素敵だね」と言うとか、尊敬する人には「尊敬しています」と言うとか。

理由とか、かっこよく深めたこととか言えなくても、素直な思いを伝えれば、自然と人に伝わっていくこともあるのかな、と。

好きだ!大切だ!と叫んでいるうちに、なんで?どんなところが?と聞いてもらえる機会も増えるかな、そうしたら人に伝える機会も増えて、場数でスキルアップしていけるかな、なんて少々他力本願なところも期待して。

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